「寛政の改革」を行った老中は白河の名君だった!松平定信ってどんな人物?

2021.01.26
歴史 #南湖公園#天明の大飢饉#寛政の改革#松平定信#歴史人物#白河そば#白河藩

江戸時代の老中だった松平定信。彼は寛政の改革を行ったことで有名な人物ですが、白河藩の藩主であったことをご存知ですか。名君と名高い彼は福島ではどんなことを行い、またどんな人物だったのでしょうか。今回は松平定信について詳しくご紹介します。

 

白河藩の名君!「寛政の改革」を行った質素倹約の老中

松平定信は宝暦8年に徳川宗武の7男として誕生しました。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫にあたる由緒正しいお家柄。幼少期より聡明で利発な子で、兄が病弱だったこともあり、7男といえ一時は家を継ぎ、いずれは将軍候補になるかもしれない、とまで思われていたようです。

17歳の頃、陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子となります。そして1783年、25歳のときに藩主になりました。この頃、東北地方を中心に「天明の大飢饉」が発生します。凶作で米が取れず、値段が急騰。米をもっていた町人はすべて売り払ってしまい、結果として深刻な米不足に陥ってしまいます。定信は、比較的被害の少なかった越後から米を取り寄せ、さらに会津藩に協力を請い、会津藩の米も分けてもらうことができました。結果、藩内に餓死者を出さずにすみ、藩政の建て直しも成功します。このことは近隣の藩に評判になり、名君として知られるようになります。

この大飢饉での手腕を認められた定信は、1787年に江戸幕府の老中に抜擢されます。その頃の幕府では、商人と深く結び付いた田沼意次の賄賂政治がはびこっており、定信は改善することを決意します。それが定信30歳のときに行った「寛政の改革」です。飢饉への備えとして囲米という備蓄米を義務付けたり、町ごとにお金を積み立てさせたり、武士への借金の利子を軽くしたり、と政治面や経済面はもちろん、文化面にいたるまで、様々な分野での改革を大胆に行いました。定信は朱子学に基づいて質素倹約を課します。娯楽を禁じ、商業を軽んじる傾向があったため、だんだんと周囲からの不満も高まっていきました。在職6年で、定信は老中から失脚してしまいます。

失脚後定信は白河藩に戻り、藩政に専念します。山間の領地のため藩の財政は厳しかったですが、馬産を奨励するなど財政回復に尽力。1801年には日本最古の公園とされる庭園も整備します。享年72歳でなくなる最期まで、白河藩のために尽くしました。

 

防災の天才!いまに受け継がれる白河藩主の手腕

白河市では、松平定信のゆかりの地がそこここにあります。

1801年に整備した庭園「南湖公園」は、「士民共楽」の理念のもと作られました。武士も庶民も共に楽しめる場所、の通りいまでも訪れる人々の心をなごませています。定信はこの地を公園としてだけでなく、藩士の水泳の訓練や避難所としてなど、様々な用途を兼ねて作りました。常に備えることを是とした定信を象徴する場所です。公園の中には、定信の像も立っています。

また常宣寺の山門も、定信が寄贈したもの。関山満願寺には歌碑も立っていて、定信が白河市に尽くし、白河の人々からも定信が愛されていることが伝わってきます。

また白河のご当地料理「白河そば」も定信の生み出したもの。定信は天命の大飢饉のあと、飢饉に備えるために冷害に強いそばの栽培を推奨したのです。いまでは信州、出雲、盛岡とともに「日本四大そば処」として知られるまでに。定信は白河の名物も作り出したのです。

藩の財政を建て直し、備えの大切さを実践した松平定信は、いまでも白河の人々に愛され、その志を受け継いでいます。

 

まとめ 「松平定信」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

松平定信は寛政の改革だけでなく、白河藩主としてもその腕をふるい、名君として知られていました。ぜひ白河市のシンボル的存在の南湖公園に来て、歴史を感じてみてください。

 

「松平定信」の歴史、文化的な価値、魅力

・寛政の改革を行った老中として有名な松平定信は、白河藩主としても名君として知られている
・藩政を建て直し、日本最古と言われる公園や白河そばなど名物を作った

ふかしま。
レビューの平均:  
 0 レビュー

レビュー投稿
1
2
3
4
5
送信
     
キャンセル


レビュー投稿

ふかしま。編集部
ふかしま。編集部