【川俣町】海外有名アパレルブランドも認める「川俣シルク」とは

2021.01.26
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「川俣シルク」についてご存知ですか?1960年頃まで絹織物は日本の代表的な輸出産業であり、輸出港である横浜で製造される「横浜スカーフ」は、一時は世界シェアの8割を占めとして海外でも有名になりました。この「横浜スカーフ」ですが、実際にはその半分近くが川俣産の生地を使っていたのです。その後、シルク製品そのものが低迷していましたが、現在、川俣町では世界最高水準の技術を武器にシルクの復活を目指しています。今回はブランド復活に向けて進む「川俣シルク」についてご紹介します。

 

一時は世界シェアの8割を占めた横浜スカーフの生地も「川俣シルク」だった

高度成長期の日本を支えた川俣町の絹織物ですが、川俣町の絹織物の歴史は古く、飛鳥時代まで遡ります。言い伝えによると、592年に暗殺された崇峻天皇の妃・小手姫(おてひめ)が、実父と娘・錦代皇女とともに京都より追っ手から逃れて東北まで落ち延びました。その際、故郷の大和の風情に似た、現在の福島県伊達郡川俣町や伊達市月舘地域にとどまり、桑を植え養蚕の技術を人々に広めたといわれています。江戸時代にあたる17世紀後半の書物には、川俣町が各地に知られた”絹の町”であったことが記されており、明治維新後の1880年代には海外への輸出も始まったようです。

川俣町の絹織物が好評だった理由の一つとして、薄手だったことが挙げられます。「薄くて品質が良い」点は世界からも評価されており、明治維新後の1884年には、横浜港を経由して海外への輸出が始まっていました。なお、日本銀行の出張所が東北ではじめて福島に開設されたのは、川俣が明治当時の重要輸出品であった生糸のほか絹織物の集散地で、東北の金融の中心で、絹織物の輸出で外貨が多く入ってきたことにあると言われています。

しかしその後に安価な外国製品や化学繊維が登場したことで絹織物そのものが低迷。生産量は最盛期の10分の1まで落ち込んでしまいました。この低迷していた川俣町の伝統品「川俣シルク」の復活の兆しとなったのが、川俣町にある齋栄織物株式会社が生み出した「フェアリーフェザー」です。

 

世界一薄い絹織物・フェアリー・フェザーで川俣シルクに再び脚光が

「フェアリー・フェザー」の特徴は極細の絹糸で、その細さは髪の毛の太さ(約50デニール)の約6分の1(8デニール)という超極細絹糸が使われています。この超極細の絹糸を入手できた理由は、通常、蚕が4回脱皮を繰り返して作った繭を使用するところ、フェアリー・フェザーに使うのは「三眠蚕(さんみんさん)」と呼ばれる3回しか脱皮をしていない蚕の繭を使用しているから。細い糸を利用するためコストがかかり、使用する企業は少ないものの、脱皮の回数が少ない分、小さく、そのため糸もクモの糸のように細くしなやかであるという特徴を活かすため、この方法を採用したそうです。

この超極細絹糸を織機のたて糸に何千本もセットして織り上げた「オーガンジー(極薄手で透ける平織りの生地)」は、まったく質量を感じさせないほど軽く、さらに柔らかな肌触りが特徴。2012年の「ものづくり日本大賞」で最優秀賞の内閣総理大臣賞を受賞し、海外の製品に押されがちな日本の繊維産業の中で、品質で世界に勝負できる製品として話題を集めました。

評価は国内に留まらず、海外にも広がります。日本貿易振興機構(JETORO:ジェトロ)が行うイタリア・ミラノでの商談会に参加。そこで複数の国際的有名ブランドからサンプルオーダーを受けるなか、イタリアの有名ファッションブランドに採用されることになりました。

 

まとめ 「絹の里」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

最盛期から120年ほどを経て、再度、世界から注目を集めることとなった川俣シルク。以前は、「横浜スカーフ」の名で世界に流通したメイドイン川俣町の名産品は今回「川俣シルク」の名前で世界にその名が轟くこととなりました。川俣町を訪れた際はぜひ、このジャパンクオリティを体現する「川俣シルク」について知見を深めてみてくださいね。

 

まとめ

・1960年頃まで日本の代表的な輸出産業である絹織物の代表格として「川俣シルク」があった
・近年、世界最高水準の技術をもって「川俣シルク」が再び、世界を席巻するまでとなった

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