【川内村】磐城平藩出身の幕府老中・安藤信正と「井伊直弼」の深い関係とは

2021.01.25
歴史 #井伊直弼#安藤信正#安藤公遺児の墓#川内村#桜田門外の変#歴史人物

安藤公遺児の墓、安藤信正公歌碑など川内村と縁深い安藤信正(安藤信正の記事はこちら)。この安藤信正の生涯に大きな影響を及ぼしたのが井伊直弼です。江戸の超重要職である大老・井伊直弼と安藤信正の接点などについてここではご紹介してまいります。

 

おさらい 井伊直弼の略歴と歴史的な出来事

後の福島が誇る名大名・安藤信正との絡みをしっかりご理解いただくためにもまずは井伊直弼という人物について整理していきたいと思います。ここでご認識いただきたいのが「日米修好通商条約」「安政の大獄」と「桜田門外の変」です。

第13第近衛彦根藩主という名家に生まれながら十四男、そして正室ではなく側室の子であったことから、藩主になるのは絶望的。そんな中で教養をつけながら、三男から十一男へ藩主を次ぐ予定だったのが、十一男の死により突、幸運が如舞い降り彦根藩主。そこで名君として名を馳せ、からやがて幕府への関与を深めていったという、逆境からの出世コースはそれだけでドラマになりますがここでは残念ながら割愛。

黒船来航、当時、大老であった井伊直弼が「日米修好通商条約」の許可を調停の許しを得ずに結んだことが後の彼の人生を運命づけます。つまり、米国へ開国宣言をしたわけですが、これに怒ったのが鎖国を訴える攘夷派。ここから攘夷派が幕府に対して反旗を翻すのですが、そこで井伊直弼がとったのが「安政の大獄」です。簡単に言えば幕府に逆らったものは身分に関係なく処分。これにより国内はかなりピリついた状況を迎えます。

そして、攘夷派の怒りがピークに達した時に起きたのが桜田門外の変。この急襲によって井伊直弼は暗殺もとい”病気”になるわけです。

 

強硬路線の井伊直弼。穏健路線で朝幕関係を深めようとした安藤信正

安藤信正は、幕府の超要職である大老の井伊直弼の下で若年寄となります。これが安政5年(1858年)のこと。当時で言えば、大老とは徳川家の血縁者で信頼の厚い者が政務へのアドバイザーを行っていたのを役職化したもので、一方で、若年寄とは江戸幕府の政治全般を取り仕切る最高責任者の老中に次ぐ重職。かなり”偉い人”であったことがわかります。その後の1860年(安政7年)には、順調に老中に出世。ただし、当時、井伊直弼が断行した「安政の大獄」など強硬路線を否定していました。

やがて井伊直弼が桜田門外で暗殺された後は、老中の久世広周と幕政を掌握します。なお、この桜田門外の変ですが単なる悲劇でなく、やや複雑な禍根を残すことになります。というのも、当時の幕府の慣習法によれば、藩主が不覚により一命を落とした場合や、藩主が生前に跡目を相続する者を決定せずに死亡した場合には、その藩は改易ということになっています。つまり、譜代の名家である井伊家といえども改易(身分を平民に落とし、家禄や屋敷を没収する厳しい処罰)は免れないのです。

そこで、井伊直弼は襲撃はされたが死んでおらず、病気””引き籠もりと発表され、およそ2か月後に病死したとされたのです。この奇策を思いついたのが安藤重信。この妙案により、安藤重信は一挙に幕閣の指導的立場に立ったと言われています。

井伊直弼の後を継いだ安藤重信は強硬路線から一変。慎重に公武合体を訴えていきましたが、その後、自身も坂下門外の変にて急襲されることになります。死は免れたものの老中に降格。やがて隠居となるのです。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。井伊直弼も安藤信正も近代の礎を築いた名大名としてかなり興味深い人物であることがわかっていただけたと思います。特に、井伊直弼の名に隠れ、あまり目立たない安藤信正の奇案などはかなりユニークだと思います。この安藤信正のこと、また安藤信正に関連する安藤公遺児の墓の記事などもありますので、ぜひ、一緒にご覧になってくださいね。

ふかしま。
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