【広野町】二ツ沼古戦場跡で新政府軍と戦った新選組最後の隊長「相馬主計」とは

2021.01.25
地域密着 #二ツ沼#広野町#新選組#歴史人物#相馬主計#近藤勇#野村利三郎

広野町二ツ沼。この場所は、最後の新選組隊長「相馬主計(とのも)」と野村利三郎が明治政府を相手に防衛線を敷き、戦闘した場所でもあります。広野を舞台に戦った「相馬主計」とはどんな人物だったのか。その横顔に迫ります。

 

近藤勇とともに斬首されるところを村利三郎とともに助命される

「相馬主計」は天保14年(1843年)、常陸国笠間藩士の船橋家に生まれます。21歳の元治元年(1864年)に天狗党が挙兵するとこれに影響を受け、その翌年に常陸国笠間藩を脱藩。伊予松山藩士の竹内家に仕え、ここで相馬主計または相馬肇を名乗ります。

慶応2年(1866年)に第二次長州征討に松山藩兵として従軍。将軍徳川家茂の死去で征討が不首尾に終わると、翌年上洛し、ここで新撰組に見習い隊士として入隊。程なくして平隊士に昇格し、油小路事件に出動しました。その後、隊長付組頭となり、年少の見習い隊士たちをまとめていたとされています。

鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸に引き上げた新選組のなかで、流山にて近藤が新政府軍に投降すると、「相馬主計」は土方歳三の指示で勝海舟らの書簡を新政府軍に届けるよう命じられ近藤勇らと板橋へ向かいますが、途中、近藤勇の正体が見破られ、「相馬主計」は近藤勇に付き従っていた野村利三郎と共に捕縛されてしまいます。近藤勇とともに斬首されることはずだった「相馬主計」と野村利三郎でしたが、近藤の必死の嘆願により二人は助命されたと言われています。

その後「相馬主計」は笠間藩に引き渡されますが脱走。同じく脱走した野村と落ち合い、奥州を転戦。仙台にて土方歳三ら新選組と再会。戊辰戦争時の慶応4年に、磐城国として分離される地域(現在の福島県浜通り)で行われた、明治新政府軍と徳川旧幕府軍との一連の戦い「磐城の戦い」に参戦します。この「磐城の戦い」が通称・広野の戦いと言われるものです。

 

新選組隊士103名と共に降伏。伊豆諸島への流罪されるがその後は謎

広野の戦いが繰り広げられたのは現在の「二ツ沼古戦場跡」。ここに同盟軍の「相馬主計」と野村利三郎が防衛線を敷きます。最初でこそ土地勘のある同盟軍に有利に運びましたが、久之浜に上陸した新政府軍の長州、岩国両藩の援軍が到着するや、あっという間に形勢は逆転。同盟軍は後退を余儀なくされます。そこに追い打ちをかけるように新政府軍の軍艦からの砲撃が始まり、同盟軍は弁天坂砲台を放棄。北へ逃走していきました。

歴史で知られる通り、その後は新選組隊士103名と共に降伏。戊辰戦争は終結し、新選組は名実ともに終焉を迎えました。ここで戦犯として榎本武揚ら6名の幹部とともに東京へ送られた「相馬主計」でしたが、先に投獄されていた大石鍬次郎の自供により、伊東甲子太郎殺害の容疑をかけられ、また「相馬主計」本人も容疑を認めたものの、事件当時は入隊して間もなかったことが考慮され、伊豆諸島への流罪とされます。

その後、特に「相馬主計」の死については不明です。伊豆諸島の新島に到着し、現地の大工の娘まつと出会い結婚。寺子屋を設計から建築まで自分の手で行い、島の子供たちに読み書きを教えて暮らし、2年後に赦免され、妻とともに東京へ移り住ました。しかし、死については時期や理由は不明で、妻に「他言無用」と言い遺し自害したとされますが、同名の別人の記録と混同されているという説もあるそうです。

 

まとめ 「相馬主計と広野町」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

歴史に名を残す新選組の最後の隊長「相馬主計」が戦った場所「二ツ沼古戦場跡」。歴史好き、新選組ファンならこの地を訪れない理由はありません。若い戦士がこの地でどんな思いで戦ったのか、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 

まとめ

・新選組最後の隊長「相馬主計」が新政府軍に対抗した磐城の戦い、通称広野の戦いが繰り広げられた「二ツ沼古戦場跡」は今なお、歴史を雄弁に語る場として多くの方が訪れる

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