【楢葉町】伊達氏15代当主・伊達晴宗が眠る「宝積寺」と天文の乱とは

2021.01.25
地域密着 #伊達晴宗#伊達稙宗#宝積寺#寺社仏閣#楢葉町

宝積寺に眠る伊達晴宗という人物をご存知でしょうか。伊達政宗でおなじみの伊達家の15代当主で、後に父で14代当主の伊達稙宗と天文の乱と呼ばれる「骨肉の争い」を起こした人物です。福島県の中世における大きな出来事である天文の乱を引き起こしたといわれる伊達晴宗と、現在の宝積寺についてご紹介したいと思います。

 

伊達稙宗、伊達晴宗父子とはどんな人物なのか。なぜ天文の乱が起きたのか

「宝積寺」についてご紹介する前にまずは伊達家の15代当主・伊達晴宗と父で14代当主の伊達稙宗について簡単にご紹介したいと思います。

伊達稙宗は「棟役日記」「段銭古帳」を作成して徴税の体系化等、内政に尽力。分国法「塵芥集」を制定し、戦国大名としての権力確立を図りました。また、子の多くを近隣諸家に入嗣、入嫁させ、奥州における伊達氏の地位を築きました。

稙宗の子・伊達晴宗は伊達政宗の祖父にして、伊達稙宗の嫡男として、永正16年(1517年)に誕生しました。母親は正室の泰心院で、会津国の蘆名盛高の娘です。稙宗は側室が六人もいたと伝わっており、そのため晴宗の兄弟姉妹が多くいましたが、先述の通りその兄弟は大崎氏や葛西氏などに入嗣しています。

なお性格や価値観が晴宗と稙宗では真逆だったのではないかとも言われています。その一因が側室の数で、稙宗が側室を多く持ち、二十人以上の子どもがいたのに対し、晴宗には側室がいた記録が残されておらず、この時代には珍しく正室一筋だったわけです。ちなみに晴宗の正室は久保姫(岩城重隆の娘)で、奥州一の美女だったと伝わっています。

子の多くを入嗣、入嫁させていた稙宗ですが、実元を越後・上杉氏に入嗣させようとところで、これに反対する嫡男晴宗と対立。天文9年(1540年)に越後においてこの案に反対する揚北衆の本庄房長らが挙兵して紛争へと発展しており、稙宗もこれに対抗するために軍事介入を図したのが天文の乱です。

序盤は諸大名の多くが加担した稙宗方優位のうちに展開しましたが、、稙宗方の田村隆顕と蘆名盛氏の間に不和が生じて両者が争い始めると、蘆名氏は晴宗方に転じました。これで戦況が一転。晴宗方に戦況が優位に傾き、さらに稙宗方からの離反者が相次ぎ、天文17年(1548年)、将軍・足利義輝の仲裁を承けて、稙宗が隠居して晴宗に家督を譲るという条件で和睦が成立し、争乱は終結しました。

 

宝積寺の本堂真向かいの老梅ろうばいの根元、五輪塔の下で静かに眠る伊達晴宗

天文の乱の後、稙宗は丸森城(宮城県丸森町)に隠居。一方の晴宗も米沢に本拠地を移し、天文22年(1553年)家臣に対して知行判物を一斉に発給、後子の輝宗と対立し、永禄7(1564)年47歳の若さで家督を譲り、陸奥国杉目城に隠居することになります。晴宗は夫人である栽松院と末子の直宗を伴って杉目城(福島城)に移り、十二年ほどの余生を当地で過ごしました。この杉目城内に建立した寺こそが「宝積寺」です。

祖先の霊を弔い、合戦によって亡くなった家臣の霊を慰めるべく建立された「宝積寺」。三千数百坪の境内地には七堂伽藍がそびえ立ち、二十一坊には数十人の修行僧が常住していたとされていますが、度重なる戦火に見舞われ、往時の面影を偲ばせる什物や記録などは残っていないそうです。

 

宝積寺

住所:福島県福島市舟場町3-16

 

まとめ 「宝積寺」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

いかがでしたでしょうか。福島の歴史に残る天文の乱を後世に伝える名刹「宝積寺」は、歴史好き、伊達家ファンならぜひ、訪れるべきスポット。この地を訪れ、ぜひ当時の歴史に思いを馳せてみてください。

 

まとめ

・天文の乱で命を落とした伊達晴宗とその兵士たちが眠っている名刹

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