【浪江町】「関ヶ原の戦い」の帰還中、敵対する相馬義胤に領内で陣を置き宿をとった正西寺

2021.01.25
浪江町 #上杉景勝#伊達政宗#天文の乱#歴史出来事#水谷胤重#浪江町#相馬義胤#関ヶ原の戦い

福島県双葉郡浪江町川添南大坂にある真宗大谷派の寺院「正西寺」について耳にしたことはありますか? 標葉郡を支配していた標葉氏ゆかりの寺院であることは一部の歴史ファンにはおなじみですが、実は「関ヶ原の戦い」とも少なからぬ繋がりがあるのをご存知でしたか?今回はこの「正西寺」と「関ヶ原の戦い」、そして伊達政宗との繋がりについて解説していきます。

 

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まずは「正西寺」の歴史について簡単に解説します。

実は浪江町川添(旧川添村)の「正西寺」の寺地には、明治時代初期までは天台宗の華光院という寺院が存在していました。「正西寺」はもと大堀村(浪江町大堀)にあり、江戸時代初期に標葉氏の家臣の小丸氏の一族によって草創されたとされています。

そして寛永19年(1642年)に小松光善(法名釈光善)が開山、明治4年(1871年)に川添村の華光院跡(現在地)に移転しています。

この華光院とは天台宗の寺院で、嘉吉2年(1442年)標葉清隆により標葉氏の居城である権現堂城に建てられましたが、天正2年(1574年)に全焼、標葉郷川添邑涼ヶ森(当地)に移転させ、曹洞宗に改宗し、円応寺の末寺となったという歴史を持ちます。

ここで登場するのが伊達政宗です。天文の乱以後、伊達氏と相馬氏は対立していましたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの直前、伊達政宗は徳川家康の要請で会津の上杉景勝の領地に北から攻め入るため大坂から仙台へ帰還することになりました。

しかし仙道(中通り)は上杉領のため封鎖されて通ることができなかったので、何たる奇策、敵対していた相馬義胤に領内である浜通りの通過を願い出たのです。政宗に従う兵は僅か、考えようによっては敵対する伊達氏を追い詰めるチャンスでもあったわけですが、義胤は政宗を華光院に宿泊させ何事もなく無事に通過させたといいます。

実際に当時、伊達と敵対していた相馬義胤の家臣は皆この期に政宗を討つべきであると評議したそうですが、老臣のひとり水谷胤重は「家康の属将である政宗を討っても、もし景勝が敗れて家康が勝利を収めれば、当家は家康のために忽ち亡ぼされるであろう」と反対論を述べ、主君の義胤や諸臣はなお協議の末、この意見に同意したと言われれています。

敵に頭を下げ、宿泊させてもらっていた伊達政宗の胸中やいかなるものか。いずれにせよ、伊達政宗はこに陣を置き宿をとったとことでその後の歴史に繋がっていくわけです。

 

正西寺
住所:福島県双葉郡浪江町川添字南大坂15

 

まとめ

敵対する相馬義胤に頭を下げて領内の通過を願い出た伊達政宗、中長期の視点に立ってわずかな兵の伊達軍を討たないという提案をした水谷胤重、そしてその部下の判断を冷静な視点でジャッチした相馬義胤。一連の出来事に絡む人物がみな、魅力的な行動をとっているこの出来事は、歴史としてだけではなく、道徳や社内教育の一例としても学びたいもの。今ではなかなか実現しづらい、こんな粋なやりとりも歴史を夢中にさせてくれる一因なのかもしれませんね。

 

まとめ

・「正西寺」は「関ヶ原の戦い」の一幕として、聡明で粋な歴史人物たちの人間模様が垣間見えるエピソードをもっている

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