【浪江町】歴史的に有名な「後三年の役」のきっかけは婚儀?

2021.01.25
浪江町 #後三年の役#標葉四郎隆義#歴史出来事#浪江町#海東小太郎成衡#源義家

平安末期の永保3年(1083年)から寛治元年(1087年)に奥州の支配者・清原氏の内紛に、陸奥守(むつのかみ)である源義家が介入して起きた戦いが「後三年の役」です。この戦いのきっかけとなったのは、現在の浪江町請戸大平山にあたる場所に館を築き、一帯の統治を始めた標葉氏の初代、標葉四郎隆義の父である海東小太郎成衡の婚儀の日に起こった事件とされています。歴史的に有名な「後三年の役」と海東小太郎成衡の婚儀の日に起こった事件についてご紹介します。

 

安倍氏の滅亡により、清原氏が奥羽地方を制覇

まず時代背景を整理したいと思います。

平安末期の東北は清原氏と安倍氏という二大勢力がありました。しかし、康平5年(1062年)に起きた「前九年の役」で安倍氏が滅亡。それにより、清原氏が奥羽地方を制覇します。

この清原氏ですが、複雑な血縁関係で結ばれており、清原真衡の異父兄弟の弟・清原清衛の母は前九年の役で敗北した安倍氏の娘で、藤原経清の妻だった女性なのです。清原清衛の母はその後、清原武貞の子・家衛を産み、真衛と清衛・家衛兄弟とは仲が悪く、対立していたようです。

そんな中、清原氏の当主となった真衛には嫡男が生まれず、平氏の血を引く成衛を養子に迎えました。さらに真衛は源氏とも縁戚になることを目論んで、源頼義の娘を成衛と結婚させます。

この成衛の婚礼の際に、真衛と叔父の吉彦秀武との間に諍いが起こり、怒った真衛は秀武討伐に向けて挙兵。真衛と対立していた清衛・家衛兄弟も秀武軍に加わり、真衛の館に向けて兵を進めましたが、直接対決には至りませんでした。

 

いよいよ清原氏の一族内の内紛「後三年の役」が勃発

しかし、永保3年(1083年)に義家が陸奥守として陸奥国入りすると、再度戦いが勃発。これがいわゆる「後三年の役」です。

義家の国府軍は真衛側に加勢したため、清衛・家衛軍は大敗を喫して降伏。ところが、勝者の真衛は行軍の途中で急死してしまいます。ここで戦いは一旦収束し、源義家が間に立って清原氏の土地などを清衛と家衛に分配しました。これで解決、と思いきや土地の分け方に不満を持った家衛が、応徳3年(1086年)に再び、清衛の館を襲撃して清衛の妻子を殺害、またもや争いが勃発します。

義家は清衛方に付き、内紛に介入することに。義家・清衛連合軍は家衛を襲撃しますが、準備不足のため家衛の籠城戦に苦戦し、ついには撤退。武家の名門・源氏の棟梁に勝ったことに気を良くした家衛は、味方となった叔父の清原武衡の勧めで、難攻不落といわれる出羽国・金沢柵(現在の秋田県横手市)に移ります。

1087年(寛治元年)、義家・清衛連合軍は金沢柵を攻めますが、なかなか落とすことができません。そこで吉彦秀武の提案で兵糧攻めを行ないます。その内容は非常にむごい物で、投降した女子供を最初は助命していましたが、見せしめに殺して投降させないようにすることで、食糧を早く食べ尽くさせたのです。その結果、兵糧の尽きた家衛・武衛軍は敗走。家衛も武衛も討ち取られます。

「後三年の役」ですが、朝廷からは清原氏の一族内の内紛であるとみなされ、勝利した清衛や義家に、恩賞も官位の賞与もありませんでしたが、清衛は清原氏の最後の生き残りとして、所領すべてを相続しました。その後、実父の姓である藤原姓に戻し、奥州藤原氏の祖となりますが、これを最後に清原氏は歴史の舞台から消えていくのです。

 

まとめ 「後三年の役」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

東北として福島を代表する氏族であった清原氏が巻き起こした「後三年の役」は、結果、内紛として一族の没落に繋がりました。歴史が私達に教えてくれること、歴史は繰り返すことを色濃くにじませた「後三年の役」は、現代だからこそ今一度、学びなおしたいトピックスと言えるのではないでしょうか。

 

まとめ

・中世の東北、福島を知る重要な出来事であり、東北の雄・清原氏が歴史の舞台から姿を消した戦である

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