【福島の歴史】南朝の貴公子・北畠顕家と彼を支えた福島の武将たち

2021.01.26
歴史 #北畠顕家#南北朝時代#後醍醐天皇#新田義貞#村上天皇#歴史#足利尊氏

日本で初めてふたつの朝廷が並行して存在した南北朝時代。後醍醐天皇、足利尊氏、楠木正成、新田義貞といった英雄が注目されますが、忘れてはいけないのが南朝の若き司令官・北畠顕家。そして、その軍を支えたのは福島の武将とその配下でした。そんな彼らの生き様を見ていきます。

 

鎌倉幕府の滅亡と足利尊氏の台頭

楠木正成が籠もる赤坂城が陥落すると、元弘の倒幕計画は完全に失敗に終わったかと思われました。しかし、密かに逃れ潜伏していた正成が千早城で再決起すると、事態は再び動き出します。幕府に追放されていた後醍醐天皇が、隠岐島から脱出し伯耆船上山で旗揚げ。すると、その討伐に向かった足利尊氏が天皇側に寝返り、京都・六波羅探題を攻め滅ぼします。さらに、これに同調した尊氏と同族の新田義貞が鎌倉を陥落させ、鎌倉幕府と北条氏は滅亡しました。

こうして、後醍醐天皇による建武の新政が開始されます。この新たな政権が続いていくかは、長年政権を担ってきた幕府の滅亡と、それに前後する混乱を誰もが納得できるよう収束させられるかにかかっていました。

そのために必要な大きなポイントのひとつは東国武士の掌握だったでしょう。建武政権が畿内にある中で、旧政権の地盤であった鎌倉の近くには幕府と関係が近い勢力もありました。たとえば白河結城氏の結城宗広とその息子・親朝、親光兄弟は、元弘の乱では尊氏、義貞とともに幕府討伐に参加しましたが、元々は幕府の御家人でその関係も密接だったといわれています。また、今回の立役者である尊氏、義貞は北関東の御家人でしたが、元々は幕府と密接なつながりを持つ氏族の出身です。その勢力がくすぶっている東国の統治は非常に重要なものでした。

そのための役職として、建武政権では陸奥将軍府という行政府が設けられます。この新たな行政府は、陸奥国、出羽国に加えて北関東の三国を統括する権限が与えられます。また、陸奥国内においては恩賞なども自由に与えられるという破格の権限を持っており、官僚組織に加えて公卿や在地の武将から評定衆を置くことができる、さながら鎌倉幕府を模した小幕府のような行政組織でした。もちろん、これだけの権限を与えるには理由がありました。まず、北条勢力の残党がくすぶっていること。そして、足利尊氏の動きを警戒することです。

尊氏は倒幕の恩賞として北条氏が陸奥国に持っていた旧領を受けており、尊氏が奥州藤原氏の滅亡以降は誰も就任していなかった鎮守府将軍の地位を授けられていました。また、倒幕の功労者でありながら、尊氏は建武政権の要職に就かない一方で、弟や参謀といった信頼する部下を政権に送り込みます。政権に一定の距離をとる尊氏の姿勢は警戒すべきものでした。

そんな陸奥将軍府の運営という、難しい仕事を任されたのが、後醍醐天皇の腹心・北畠親房の息子で、若干14歳で史上初の参議となった若き英俊、当時まだ15歳の北畠顕家でした。

 

若き鎮守府将軍の快進撃と南北朝の成立

義良親王(後の後村上天皇)を奉じ多賀城に入った北畠顕家は、結城宗広を諸郡奉行に任じて奥州方面の統治を任せ、結城親朝、伊達行朝、南部師行らを評定衆に任じると、津軽方面に残っていた北条残党の討伐に乗り出し、これをすぐさま殲滅します。そして、その軍勢が国府・多賀城に戻ると、驚きの知らせが待っていました。まず、顕家は従二位の昇進、鎮守府将軍にも任じられます。加えて、前任の鎮守府将軍だった足利尊氏の討伐命令が出されたのでした。

尊氏は、顕家が陸奥国に向かった頃、鎌倉で北条勢力の残党の討伐に乗り出していました。後醍醐天皇はその命令を出してはいませんでしたが、尊氏が自主的に兵を動かしての討伐でした。そして、尊氏はそのまま鎌倉に居座ります。政権からの上洛命令もありましたが、これを無視し、北条の残党討伐の恩賞を勝手に配り始めました。これは、誰の目にも自らの武家政権を樹立しようとする動きに見えました。

後醍醐天皇は新田義貞に命じ、尊氏討伐の軍を出します。尊氏は、当初はそんな野心はないように振る舞いましたが、対決が避けられないと悟ると後醍醐天皇と対決することを決意します。箱根での新田軍との対決に勝利した尊氏は、そのままの勢いで京に攻め上り、都を占拠しました。しかし、その数日後、顕家が陸奥の軍勢5万を率いて尊氏に攻めかかります。陸奥国からの道程を考えると、あまりにも早い、早すぎる襲来でした。

顕家率いる陸奥の軍勢は、出立から10日目には鎌倉を陥落させ、その11日後には琵琶湖を越えて近江・坂本に到着して新田義貞、楠木正成らと合流しています。このスピードを計算すると、1日平均30キロの進軍で、豊臣秀吉の中国大返しよりも長い距離を、より早く駆け抜けたことになります。これには尊氏もなすすべなく敗れて京を脱出、畿内には留まりましたが新田・楠木軍の追撃を受けて九州に落ち延びていきます。都を奪還した後醍醐天皇は顕家を褒め称え、鎮守府大将軍に任命しました。

尊氏が九州に落ち延びると顕家はすぐさま東国に引き返し、足利方についた勢力の討伐にあたります。足利方の奥州管領だった斯波家長や、同じく足利方についた相馬氏を打ち破り多賀城に帰還。すると、今度は顕家が尊氏に驚かされる番でした。尊氏が九州で兵を集め、摂津湊川の戦いで新田・楠木軍を撃破。楠木正成は討死という散々な知らせでした。かつ、今度は後醍醐天皇が追放されている期間に即位していた、光厳上皇とその弟、光明天皇を引き連れての進軍でした。

顕家は義良親王を連れて、多賀城から伊達行朝の勢力下にあった霊山へと国府を移転。そこに霊山城(伊達市、相馬市)を築くと、ここを拠点にまずは奥州の安定を図り、東国の足利方勢力を討伐していきます。その間、尊氏は京を制圧し、新たな天皇を擁立、吉野に逃れた後醍醐天皇も対抗します。こうして南朝と北朝が成立しました。

 

北畠顕家の再上洛。その結末とは

吉野の後醍醐天皇や、北畠氏の本領である伊勢にいる父・親房からは、上洛の催促の手紙が送られてきましたが、顕家もそうすぐには動けませんでした。上野国にいる新田氏などと連絡をとりあいながら関東の状況を把握し、奥州の統治を万全としつつ、上洛の準備をすすめていきました。そして10万にのぼる兵を集めると、顕家は義良親王を奉じて再び上洛のための兵を引き連れて進軍を開始するのでした。

今回は前回の倍の規模の軍ということもあり、下野国や武蔵国で足利方との合戦はありつつも危なげなく勝利を重ね、その後、再び鎌倉を陥落させます。奥州管領だった斯波家長を討ち取り、足利義詮、上杉憲顕といった武将は房総に落ち延びます。こうして連戦連勝の顕家軍は、敵方も味方に吸収しながら西進していきます。そして、再度集結して追いかけてきていた足利方の軍勢と美濃国青野原(岐阜県大垣市)にて対峙します。

10日ほど続いた合戦は、最終的に顕家軍が勝利しました。ここから近江に入れば、京はもはや目前です。しかし、後がない足利軍もここは踏ん張りどころで、近江と美濃の国境付近に高師泰ら5万の兵を集め、陣を敷いて待ち構えました。――連戦するのか、それとも兵を休ませるか。顕家の下した決断は、後者でした。

顕家の軍勢は、伊勢の北畠領へと迂回し、その後吉野へ抜けるという進軍ルートを選びます。伊勢で休養した顕家軍は大和国に入ると、そこから北上していき大和国までは制圧しましたが、京に近づくにつれて足利軍の抵抗は激しくなっていきます。そしてこれまで連戦連勝を重ねて、負けたことがなかった顕家軍が、般若坂における戦いでついに破れます。

この敗北によって、軍は散り散りになりました。顕家は河内国にて再び軍を集結させますが、各所に散らばった味方を助けるために少なくなった軍をさらに分けました。これが顕家にとっての命取りとなります。寡兵なところを攻め込まれた顕家は、奮戦しましたが落馬したところを捕らえられ討死。まだ20歳の若さでその生涯を終えました。また、顕家の死を知った結城宗広は吉野に落ち延び、伊勢から船で陸奥国まで戻ろうとしますが、伊勢で病に倒れ、そのまま亡くなります。

この顕家の死と南朝主力軍の壊滅によって、陸奥国の情勢も一変しました。結城親朝や伊達行朝は自領に戻ると南朝側で抵抗を続けましたが、北朝優勢が決定的になると白河結城氏、ついで霊山城が落城すると伊達氏も北朝側につくことになりました。

現在、伊達市にある霊山神社には、顕家をはじめ南朝のために戦った北畠氏が祀られています。毎年4月29日に執り行われる春季例大祭奉幣祭では、顕家が国府を開くため霊山城に入城した際に、民衆が霊山の神様に剣舞を奉納し、武運を祈ったのが始まりと伝えられている「濫觴の舞」が奉納されています。

 

まとめ 「南北朝時代」北畠顕家、彼を支えた福島の武将、その業績とは?

南北朝時代では楠木正成が人気ですが、若さと才気に満ち溢れた北畠顕家もとても魅力的です! そんな彼を支えた老将・結城宗広や伊達行朝といった面々、そして南朝軍の主力は東北だったというのもいいですよね。ただ、歴史の勝者というのは尊氏のような強かな人がなるというのは妙に納得です。

 

「南北朝時代」北畠顕家、彼を支えた福島の武将、その業績とは?

・若くして足利尊氏に勝利した鎮守府大将軍・北畠顕家って凄すぎ!
・そんな若い司令官を支える白河結城氏、伊達氏出身の武将たち
・顕家の死によって形勢が大逆転。南朝を支えていたのは東北地方

ふかしま。
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