【福島の歴史】律令体制の成立による「兵役だらけ」の奈良時代

2021.01.26
歴史 #兵役義務#大宝律令#奈良時代#律令体制#歴史#福島#蝦夷

奈良時代といえば仏教の普及や制度改革によって、日本の文明がいっきに花開いていく時期に思えます。けれども、それはやっぱり都に近い地域のエリートだけの話。地方の庶民にとってはなかなかに大変な時代の幕開けだったのかも?

 

遠き故郷を想う防人の歌

奈良時代の始まりは平城京への遷都(710年)というのが一般的な時代区分ですが、地方にとっては大宝元年(701年)に完成して翌年から施行されることになる、日本初の律令制度「大宝律令」の制定のほうが大きな出来事だったかもしれません。これによって天皇を中心とした二官八省の中央官僚機構がつくられ、書類と捺印で政策が管理決定されていくようになります。地方行政は今までのように地方豪族の領地を安堵しつつも、それらをまとめ上げる国を設置し、そのトップ(国司)も中央から派遣される統治機構に変化しました。

これにともなって、現在の福島県内に設置された、それぞれの国造は郡となって、より大きな陸奥国のもとに統合されることになります。これまで国造を任されていた地方豪族たちは、改めて郡司という役職に中央から任命されるかたちになりました。また、718年には浜通り地方の郡は石城国に、中通り地方と会津地方は石背国に陸奥国から分離独立。ただ、結果として残された陸奥国の領域は宮城県南部の限られた領域しかなくなってしまい、北方警備のための国力は明らかに不足でした。そのため、すぐに石城国と石背国は陸奥国に統合されることになります。

この大宝律令の制定を前にして、準備的に執り行われていたことがあります。ひとつは詳細な戸籍の作成、ひとつは軍団の制定、つまり徴兵制の導入です。戸籍は簡単にいえば税金の管理のためで、兵役の義務もここに含まれます。軍団は国司直轄の軍隊ですので、独自の武力を持った郡司の権力を抑えつける意図もあったのかもしれません。そして、民衆にはもうひとつ大変な兵役がありました。

奈良時代末期に完成したといわれる『万葉集』。ここには、名もなき民衆たちが歌ったとされる和歌がおよそ2100首含まれています。大伴家持が編纂に関わったとされるこの歌集には、地方出身者の歌も多く含まれており、当時の方言がどのようなものだったのかを知る一級資料でもあります。そこには「防人の歌」といわれるものも含まれています。

防人は、筑紫、壱岐、対馬など九州の防衛にあたった兵士たちのことで、主に東国から派遣されたといわれています。また、任務地への移動も自費で、兵役中の税も免除されないなど、非常に過酷な兵役だったことが知られています。

そんな防人の歌には、福島に暮らしたであろう名もなき防人たちの歌も収録されていますので、少し紹介したいと思います。

 

・君をのみ しのぶの里へ ゆくものを あひずの山の はるけきやなぞ
・あひ見じと 思いかたむる 仲なれや かく解け難し 下紐の関
・筑紫なる 匂う娘ゆえに 陸奥の 可刃利乙女の 結ひし紐解く
・会津嶺の 国をさ遠ふみ 逢はなはば 偲びにせもと 紐結ばさね

 

郷愁を感じさせる歌ですね……。ただ、寂しいのはわかるのですが、「紐」について詠いすぎじゃないですかね! 不倫よくない。

 

蝦夷との全面戦争が勃発

大陸側への備えも必要ですが、北方の蝦夷への警戒も怠ることはできません。朝廷の蝦夷への基本方針は懐柔姿勢で接するというもで、ときには武力も厭わないというものでした。有力なリーダーには官位や役職を与えて身分を保証、「そのかわり内部の不満分子はちゃんと取り締まってね」という感じです。一方で、個人的に朝廷の民になりたい人は「なっていいよ」と取り込みます。こういった蝦夷の人のことを「俘囚」と呼びます。

これまで何度か蝦夷の反乱もありましたが、ときに対立しながらも上手くやってきたというところでした。しかし、多賀城や秋田城といった行政・軍事拠点の設置、陸奥国で国内初の金山の発見というように、どんどん自分たちの領域に入ってくる者に対して、蝦夷の人々の不満は溜まっていき、対立はより表面化していきました。

当時の蝦夷のリーダーの一人、伊治呰麻呂は政府側に帰属した蝦夷でした。彼は、同じく朝廷に帰属した俘囚によって構成される俘軍を率い、敵対する蝦夷勢力と戦って戦功を重ねていました。この戦功によって外従五位下の位階が授けられたといいますが、これは当時の地方出身者としては異例の大出世でした。諸説あるようですが、大枠では蝦夷出身者の俘囚による郡がつくられ、その郡司に任命されたということだと考えられています。そして、その伊治呰麻呂は、翌年謀反を起こしたのです。

当時、陸奥国の中心は多賀城で、国司をはじめとした役人の他に、各地の軍団から交代制で兵が詰めていました。陸奥国内の軍団からの比重が最も多く、福島県内でいうならば白河団と行方団(後に安積団、磐城団が加えて設立)のふたつの軍団から駐屯兵が送られていました。呰麻呂が攻めてくると、官僚たちは真っ先に逃亡。結局、多賀城は略奪され、木っ端微塵に破壊されます。ついに蝦夷との全面戦争が始まったのです。

ここに本格的にはじまった蝦夷との戦争は、この数年前の抗争から、「坂上田村麻呂」の登場と蝦夷の指導者アテルイとモレの降伏によって収まるまでを含めて「三十八年戦争」と呼ばれます。そして、その最前線に立った者の多くは福島県内出身の名もなき兵士たちでした。

 

まとめ 「福島県の奈良時代」変化、出来事、文化とは?

奈良時代の福島県を振り返ってみると、本当に兵役にばかりです。もちろん、記録に残されていないだけで、もっと穏やかな日常があったのだと思いたいですが、そういったことは記録にはなかなか残らないですから仕方ない。ただ、万葉集の歌はそんな庶民の心持が伝わってきて、感慨深いものがありますね。

 

「福島県の奈良時代」変化、出来事、文化

・律令体制の成立によって統治機構にも大きな変化が!
・民衆にとっては厳格な税金管理に兵役義務など厳しい時代に
・ついに蝦夷との全面戦争が勃発!

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