【福島の歴史】徳一と奥州藤原氏が築いた仏教による平安時代

2021.01.26
歴史 #いわき市#会津#奥州藤原#平安時代#徳一#歴史

平安京に都が移されると、それから約400年間、京都が政治・物流・文化、そして権力争いといったあらゆるものの中心となりました。一方で、東北の地では仏教が急速に普及していき、大きな災害に見舞われながらもそれを乗り越えていく。果たして福島は、そのとき平安な時代だったのか?

 

復興に立ち向かった僧・徳一とは

平安時代といえば、優雅な宮廷文化というイメージがまっさきに思い浮かびますが、一方で陰陽道や密教による占いや呪術、怨霊などよくわからないものが流行った時代でもありました。また、末法思想などから仏教が貴族から民衆にまで広がっていくなど、日本人全体の世界観が大きく変わった時期でもありました。

あまり知られていないかもしれませんが、9世紀の日本では驚くほど天変地異が頻発しています。富士山は延暦大噴火(800~802年)と貞観大噴火(864年)と2度も噴火していますし、850年から887年までの37年間に出羽、越中、播磨、山城、摂津、相模、武蔵で大規模な地震が記録されています。特に被害が大きかったのは、三陸沖を震源とした「貞観地震」(869年)と南海トラフ巨大地震と考えられる仁和地震(887年)で、どちらも津波も合わさって甚大な被害をだしたと記録されています。火山活動も活発で、特に9世紀後半は貞観大噴火に加えて、肥後・阿蘇山(864年)、豊後・鶴見岳(867年)、出羽・鳥海山(871年)、薩摩・開聞岳(874年)が噴火しています。これだけ頻発すると「世界の終わりがくる」とか「神様が怒っている」と思うのも仕方ないことかもしれません。そして、もうひとつ有名な山が噴火しています。会津富士・磐梯山です。

磐梯山の噴火は平安時代のはじめ806年のこと。この噴火で山体崩壊したかは定かではないようですが、麓の磐椅神社の社伝によると被害は相当あったようで、これを期に地元では「病脳山(やもうさん)」などとも呼ばれたそうですので、なんともやるせないその心持がよくわかります。そんな民を救ったのが徳一という僧でした。そして、噴火の翌年、磐梯山の畔に復興のシンボルのように清水寺という寺院を建てます。後に、会津における平安時代のほとんどの期間を統治し、仏都会津をつくりあげる中心となる慧日寺です。最盛期の慧日寺は、寺領18万石、寺僧300名、子院3800坊を数え、6000名の僧兵を抱える一大勢力になります。

徳一は、皇族以外で初めて太政大臣になった藤原仲麻呂の11男だと伝えられています。奈良の東大寺・興福寺で修行を行うと東国に旅立ち、各地で教えを説きながら寺院を建立するなど、衆生済度(民衆を救う行い)を実践していきました。この行いより、民衆のみならず最澄、空海といった平安仏教を代表する僧からも「徳一菩薩」、「徳一上人」、「徳一大師」などと尊敬の念を込めて呼ばれています。後にこの二人とは、それぞれ壮大な仏教宗論を繰り広げますが、それはまた別の話。

福島県内には、会津エリアといわき市に徳一が建立したと伝わる寺院が数多くあります。また、この平安時代に東北地方では遅れていた仏教の布教がすすみ、他の宗派もこぞって寺院を建てるようになりました。

 

武士の台頭と奥州藤原氏による治世

平安時代のはじめ、坂上田村麻呂の活躍によって、38年にもおよぶ長い蝦夷征伐が完了すると、本州のほぼ全域が朝廷の支配領域になりました。これに満足した桓武天皇は、これまで莫大な負担をもたらしていた軍事予算の削減のために、各地の軍団を解散。朝廷自体は軍を維持せず、必要なときに各地の豪族を傭兵的に雇うような体制にシフトしていきます。これは、各地の豪族に大きな力を与えることになり、後に武士団の成立とその台頭を招く一因となっていきます。

軍事費の大幅な削減によって貴族たちは優雅な宮廷生活を過ごすようになりましたが、軍事力を失ったことによって地方行政の制御が次第に効かなくなっていきます。「平将門」による承平天慶の乱をはじめ、各地で豪族による反乱が起きるようになりました。

蝦夷討伐が終わり、平定された陸奥国もそれは同様でした。陸奥国の軍権を握り半独立状態だった豪族・安倍氏が税金を払わなくなると、当時の陸奥守で河内源氏の二代目棟梁・源頼義と対立。同じく出羽国の豪族・清原氏も巻き込んだ、前九年の役が発生します。結果、安倍氏は滅び、安定したかに見えた陸奥国ですが、どの領土の分配で揉めて清原氏が内部分裂。今度は後三年の役へと突入していきます。

後三年の役が頼義の嫡男、源義家の活躍によって収まると、ようやく陸奥国は安定します。後三年の役は内輪揉めとして処理されたため、朝廷による領地没収などもなく、そのすべては一族で唯一残された清原清衡が受け継ぎます。清衡の母は安倍氏の娘で、元々は藤原秀郷の子孫で安倍氏の同盟者だった藤原経清に嫁いでいました。清衡はそのときに生まれています。安倍氏が滅んだ際に父は処刑されますが、母は清原氏の当主と再婚。連れ子として清衡は清原性を名乗っていました。そして、この期に父の性を再び名乗ります。藤原清衡。奥州藤原氏の繁栄を作り上げたその人です。

その後、京で戦乱が続く中で奥州は藤原氏によって、およそ百年にも及ぶ治世を迎えます。清衡の統治は巧みでした。過去の失敗から学び、朝廷には絶対恭順を示し信用を積み重ね、海外交易や金山開発などで莫大な富を築き上げます。そして、拠点を平泉に移すと、ここに先端的の中世都市国家を作り上げていきます。

朝廷を懐柔し権力を蓄えるやり方は、清衡亡き後も一族に継承されます。また、民を治める施策も優れていました。中尊寺金色堂に象徴されるように、仏教の教えを上手く使ったのです。白河以北の街道には、卒塔婆を一定間隔で並べ、それを平泉にまでつなげ、各地には仏教拠点を設置。奥州の心を仏教で一つにすることで、その支配を行ったのです。

福島県内は親戚の佐藤基治が行っていたといわれます。佐藤氏は、元々は信夫の豪族でしたが後に大鳥城(現在の「舘の山公園」福島市)を居城としています。また、基治の息子、佐藤継信・佐藤忠信兄弟は義経四天王としても名高く、義経への忠義をまっとうしました。

 

まとめ 「平安時代」の福島と仏教、徳一、奥州藤原氏

平安時代とはいっても戦争に災害にと大変で、まったく平安ではありませんとはよくいわれます。ただ福島というエリアに限っては、仏教を広めつつ民と向き合った徳一、奥州藤原氏のおかげもあり「そこまで悪くないかも」と思ってしまうくらいのは、よそが酷いからなのか、これまでが酷かったからなのか……。みなさんはどう思いましたか?

 

「平安時代」の福島と仏教、徳一、奥州藤原氏

・磐梯山が噴火し、貞観地震では津波でも大きな被害がでた
・僧・徳一によっていわきや会津を中心に仏教が広まる
・他国が戦乱に明け暮れる平安後期は奥州藤原氏の治世

ふかしま。
レビューの平均:  
 0 レビュー

レビュー投稿
1
2
3
4
5
送信
     
キャンセル


レビュー投稿

ふかしま。編集部
ふかしま。編集部