【福島の歴史】相馬中村藩と会津藩からみる福島県の江戸時代

2021.01.26
歴史 #保科正之#土津神社#平将門#徳川家光#徳川家康#戊辰戦争#松平容保#歴史#江戸時代#相馬利胤

戦乱の世が治まり江戸幕府による治世が行われた江戸時代は、ようやく国土への投資が行われるようになった時代でした。これにより日本中が発展していきましたが、もちろん平和な時代にも苦難もありました。それは福島県ではどのようなものだったのでしょうか。

 

平和な時代の人々の苦労と相馬中村藩

関ヶ原の合戦に勝利して江戸に幕府を開いた徳川家康は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼします。こうして平安時代後期から戦に明け暮れていた日本は、ようやく戦のない世になりました。以降、江戸時代は250年にわたる太平の世が続いていきます。

とはいえ環境が変われば、その暮らしが変わるのは自然なことで、人々は新しい時代に適応していかなければなりません。戦争ばかりの時代に苦労が多いのはもちろんですが、平和な時代には平和な時代なりの苦労があるのは当然です。これまで当たり前だった職業が失われることもありますし、新たな需要が生まれることもあります。これまで以上の技術や工夫が求められたのが、「近世」と呼ばれる江戸時代でもありました。

江戸時代の統治機構の特徴は、織豊時代から行われるようになった、領の加増や移封、没収などが、より厳格に行われるようになったことがひとつ挙げられます。領主には自領内の政治や経済を自由に行う権限が与えられましたので、努力すれば石高を上げることもできました。しかし、なにかで失敗すれば移封や没収が待っているかもしれませんので、緊張感を持った統治がなされることになります。支配階層である武士にはさらなる厳格さが求められたことでしょう。

政治や経済の中心が畿内から関東に移ったことは、東北地方にとっては喜ばしいことだったかもしれません。特に福島県内は江戸に近いですので、親藩や譜代の大名が多く配置されることになりました。そんな中で異彩を放っているのが相馬中村藩です。領主の相馬氏は平将門の末裔とされ、鎌倉時代に源頼朝より恩賞として相馬領を授けられましたが、その後の戦乱の世も領地を保ち続けました。そして、この江戸時代も外様大名でありながら領地を維持、その統治が認められ譜代に昇格すると明治時代になるまで相馬を治めることになります。その統治の歴史は、およそ750年です。

相馬中村藩の初代藩主、相馬利胤は名君として名高い人物です。関ヶ原の合戦で中立の立場を崩さなかった相馬家は、改易の危機にありました。利胤は頼れる者もほとんどいない中で、江戸に向かい直訴を行います。なんとか旧縁をたどり政権の中枢、本多正信へのとりなしに成功すると、その力を借りて所領安堵を勝ち取ります。その後は、中村城を拠点に城下町を整理し、家臣には陶芸を学ばせて相馬駒焼の基礎を作り出すなど、現代まで続く相馬の基礎を作り上げました。

三代藩主、相馬忠胤は婿養子として領主になった名君でした。領内で検地を行なうと、年貢の減免や倹約をすすめ、積立金制度を実施するなど藩の経済改革を行いました。一方で新田開発などの投資を行い、幕府とのパイプもある優れた藩主でした。

その後、天明の大飢饉では多くの被害を受けた相馬中村藩でしたが、禁制だった移民を越中(富山県南砺市)などから受け入れて、その窮地をしのぎました。その縁で、東日本大震災の際には南砺市から多くの支援物資が送られたということです。今も残るこういう人のつながりはいいですよね。

 

交通の要衝・会津若松の発展と逆境、そして幕末へ

戦が禁止された平和な時代においては、軍事力より経済力がものをいいます。また、藩士の俸禄や参勤交代、江戸での滞在費など、藩の必要経費を賄う財政がより重視されるようになります。そして、その資金を得るのも江戸や大坂といった大都市でした。人、モノ、金が集まり、かつ政治の中心でもある江戸にはビジネスチャンスがあったのです。

江戸時代は、そのための街道も多く整備されました。戦だらけの時代であれば防衛上、道は限られていたほうがメリットもありましたが、平和な時代になれば人、モノ、金を運ぶ交通網が整っているほうが便利です。そして街道沿いには宿場町がつくられていきます。福島県内でいえば東北の玄関口、白河は古くから交通の要衝でしたが、この時代になると東西南北から5つの街道が合流、江戸や日光へと繋がっていく会津若松が東北でも有数の要衝となりました。

会津若松は蒲生氏郷がその基盤をつくりあげましたが、その後は領主が頻繁に入れ替わり藩主も定まりませんでした。三代将軍・徳川家光の異母弟である保科正之が藩主になると、以降はその子孫である会津松平氏が藩主をつとめていくことになります。正之は幕政では四代将軍・徳川家綱の補佐役として文治政治を推し進め、大名への規制緩和や公共事業などをすすめます。藩政においては領内資源の規制と管理強化、藩校の設立、民衆の待遇改善など多くの施策を行いました。人々に尊敬された会津中将・正之は、63歳に死去。その墓所は磐梯山の麓、磐椅神社の傍らに作られ、息子の二代藩主・保科正経によって建立された土津神社(猪苗代町)に正之は祀られています。

その後、会津は四代藩主・松平容貞の時代に天明の大飢饉によって一揆が発生。それによる税収低下と借金の拡大などで傾きかけますが、五代藩主・松平容頌の時代、家老の田中玄宰による天明の大改革が行われ会津藩は復興に向かっていきました。玄宰の手腕は、白河藩主で幕府の老中も努めた松平定信も認めるものでした。

幕末には、九代藩主・松平容保が京都守護職に就任し幕府の中心人物となりました。しかし、情勢の変化によって次第に幕府の権力が弱まると、戊辰戦争に発展。朝敵とされた会津はその戦場の舞台となり、会津戦争の悲劇へとつながっていくのです。

 

まとめ 「江戸時代の福島県」の発展と苦難

東北地方の入口でもある福島は、江戸に近く交通の要衝だということもあって、江戸時代に急激に発展しました。ただ何度か飢饉があって、特に天明の大飢饉では多くの被害者がでたと記録されています。そんな苦難も乗り越えて、今の福島県があるのですね。

 

「江戸時代の福島県」の発展、相馬中村藩、会津藩

・街道を整備し、人・モノ・金が集まる交通の要衝となり発展
・先祖代々の領地を守り抜いた相馬氏
・名君、保科正之による会津若松の繁栄とその後

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