【葛尾村】虎捕山の橘墨虎と「源頼義」にまつわる伝説とは

2021.01.25
#橘墨虎#歴史人物#源頼義#虎捕山#飯舘村

河内源氏2代当主にして、武勇に優れた弓の達人であり、源頼朝が崇拝すべき源氏の祖先としていた崇拝していた「源頼義」。この「源頼義」が相馬郡の山中まで訪れたという伝説がこの辺り一帯にあります。「源頼義」相馬郡の山中で何を行ったのか。今も残るその伝説に迫ります。

 

凶賊・橘墨虎を山の神のお告げに従って退治した「源頼義」

後一條天皇の御代(約千年前)、相馬郡の山中に橘墨虎(たちばなのすみとら)という者が住んでいたそうです。この橘墨虎は容貌魁偉、一方で神通に長けた豪の者であり里を荒らしまわっていました。部下を引き連れて村落を横行し民家を襲って財物を強奪。

墨虎の通る時は駅民みな縮み上がり遁げ惑う

状態となり良民は大いに難渋しておりました。

勢いをつけた墨虎は霊山に物見台を設けて遠近を一望するなど、勢力益々強大となり、当時の周辺の豪族達は朝廷の命令には従わず、墨虎に服従していたそうです。

時は過ぎ、後冷泉帝の御代永承六年、奥境鎮守のため源頼義がこの地を訪れた際に村人はここぞとばかりに窮状を訴えて墨虎を退治してほしいと哀願しました。これを聞きつけ墨虎を討伐しようと決意を固めた源頼義ですが、何せの地の利がなく、墨虎は山中を出没するもので所在が分からない。どうしようかと途方にくれた時に源頼義の夢のおつげに山の神が現れ、こう告げたそうです。

白狼をつかわすのでその後を追え

そこで頼義公が山中に家来を遣わしたところ、狼の足跡を辿って墨虎の居所を突き止めることができ、墨虎を討ったそうです。

源頼義は夢のお告げをくれた山神の威徳を称え、虎捕山頂に祠を立てました。これが今も残る山津見神社のはじまりとされています。なお、この神社が現在の名で呼ばれるようになったのは明治時代から。江戸時代では「虎捕山神」「虎捕山神宮」と呼ばれていたそうです。

 

山津見神社
住所:福島県相馬郡飯舘村佐須虎捕266番地

 

 

そもそも「源頼義」とはどんな人物だったのか

相馬郡に平和をもたらし、山津見神社の起源をつくった「源頼義」ですが一体どんな人物だったのでしょうか。

先にご説明した通り「源頼義」は源頼朝に崇拝された武術の腕を持ちますが、特に若い頃から弓の腕前がピカイチで、それを裏付ける情報として平安時代末期に成立したと見られる説話集・今昔物語でもその武勇譚が記されています。

「源頼義」の名を知らしめ、その”ブランド”を確固たるものとしたのが、平安時代に上総国、下総国、安房国の房総三カ国で平忠常の乱での活躍。それまで国府軍や官軍を大いに打ち破ってきた平忠常は追討軍として武勇に優れた頼信・頼義親子が派遣された事を知ると、瞬く間に朝威に服したそうです。小一条院敦明親王の側近として重用されるようになったそうです。

その後、鎮守府将軍、陸奥守として奥州安倍氏征伐、前九年の役を戦い、安倍氏を討つなど目覚ましい活躍をみせた「源頼義」は、伊予守の任期を終えた後は出家し信海入道と号して余生を過ごした後に亡くなったそうです。

 

まとめ 「源頼義」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

平安時代に燦然と輝く功績をみせた「源頼義」が相馬郡でみせた戦果こそが虎捕山の橘墨虎の討伐です。ここで登場した山津見神社には狼信仰ほか読み応えのあるエピソードがありますので、ぜひ関連記事をご覧になったうえで、実際に現場を訪れ、その目で確認してみてください。

 

まとめ

・歴史的偉人である「源頼義」は、相馬郡にて凶賊・橘墨虎の討った

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