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2021.03.09
薪を背負って歩きながらも、本を読み勉強に励む二宮尊徳像。学校の校庭に立っていた、という方もいるでしょう。勤勉の象徴としてこのエピソードはよく知られていますが、実際は何をした人物なのか、知っていますか。尊徳には弟子もおり、その中には相馬中村藩士の富田高慶もいました。今回はこの二人がどんな人物だったのかみていきましょう。
二宮金次郎尊徳は1787年に、小田原市の裕福な農家に産まれました。いまでは「そんとく」の呼び名が知られていますが、当時の呼び方は「たかのり」といいます。産まれた当初は裕福でしたが、尊徳が5歳のとき川の堤防が決壊し、田畑がすべて洪水で流されてしまいました。さらに両親も次々と亡くなってしまいます。尊徳は親戚の元に預けられることになります。
ある夜、明かりを灯して本を読んでいると、家主に「お前は誰のおかげで飯が食えていると思っているのだ、油がもったいない」と叱られてしまいます。百姓には学問は必要ないと言われるも、勉強を諦めきれなかった尊徳。そこであの有名な像のように、仕事をしつつも勉強を続けるのです。
20代で生家の土地を買い戻し、二宮家の再興に成功。その手並みを聞いた小田原藩士から家の財政建て直しを頼まれ、これも見事成功させます。この評判が広まり、尊徳のもとに建て直しの依頼が舞い込むようになります。生涯に実に600以上の村や家を建て直したと言われています。
晩年には幕臣に取り立てられ、70歳でなくなるまでたくさんの弟子や諸大名に「報徳」の思想を教え続けました。報徳とは尊徳の思想や方法論のこと。儒教に基づいた思想で「万物すべてに徳(良い点)がありそれを報いる(活用する)」ということです。この教えを受け継いだ一番弟子が、富田高慶なのです。
富田高慶は1814年、現在の南相馬市である相馬中村藩士の家に産まれました。そのころの藩は困窮を極めており、藩を建て直すことは高慶の使命でした。江戸に向かい、勉学に励んでいたとき、尊徳のことを知ることになります。報徳の思想を知り、その方法を学ぼうと尊徳に入門。一番弟子となりました。高慶は熱心に学び18年の間、門下で過ごしたと言われています。尊徳からも絶大な信頼を得ました。1845年、満を持して相馬中村藩の財政建て直しに着手。多くの村で建て直しに成功します。
相馬中村藩で行われた報徳とはどんなものだったのか具体的に紹介しましょう。
・用水路や溜め池を修理や新設し、田畑への水を確保すること
・移住者への生活費の援助
・村民の投票により公正に、働き者を選び表彰する
・家屋の修理費用の援助
今見ると、なんだ普通のことじゃないか、と思うかもしれません。しかしこの時代まで、こういった行き届いた支援は整備されていませんでした。つまり報徳思想が現在の政治や公共の基盤にもなっている、とも言えるのです。
尊徳の死後、高慶は尊徳の教えをより広めようと『報徳記』を執筆します。これにより多くのひとに報徳思想が伝わり、尊徳は長く愛されていき、学校など多くの場所にたくさんの像が立つに至りました。また『報徳記』も、現在まで長く読み継がれる名著となり、いまなお尊徳の教えは人々に伝わっているのです。
二宮尊徳は少年期の勤勉であったエピソードが有名ですが、多くの村の財政を建て直した偉人でした。そしてその教え「報徳思想」に感銘を受け、一番弟子となり『報徳記』を執筆した富田高慶の尽力もあり、日本中に尊徳の教えは広まっています。この二人に興味を持たれた方は、富田高慶が建て直しに尽力した南相馬市にもぜひいらしてみてください。
・二宮尊徳は学校などにある像で有名だが、多くの村を財政建て直した偉人である。
・一番弟子の富田高慶は報徳思想に感銘を受け、教えを広めるために尽力した。
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