会津に忠義を尽くした最強の剣客!斎藤一ってどんな人?

2021.01.26
歴史 #三番隊隊長#会津#会津藩#斎藤一#新選組#歴史人物

時代を越えていまなお多くの歴史ファンに愛されている新選組。近藤勇、土方歳三、沖田総司と幕末を彩るそうそうたるメンツが揃っていますが、その中で謎多き人物とされた隊士がいます。それが三番隊隊長・斎藤一。剣の達人として知られていますが、後半生については印象が薄いな、と思われている方もいると思います。実は彼は会津藩と深い関わりのある人生を送っているのです。今回は斎藤一にスポットをあててみましょう。

 

超一流の剣の達人!会津で戦い続けた半生

斎藤一は1844年江戸(いまの文京区)で、幕臣の山口家に生まれたと言われています。一刀流の達人でしたが、19歳のとき小石川関口で旗本と口論になり、誤って斬ってしまいます。父の友人である京都の剣術道場を頼って、身を隠すと同時に剣の腕もさらに磨いていきました。このときに「斎藤」と名を変えたとされています。そして上洛してきた壬生浪士組と出会います。剣の腕を買われて新選組結成に参加。三番隊隊長となりました。腕利きがそろう新選組のなかでも、沖田総司、永倉新八とならぶ最強の剣客で、剣術師範も務めたほどでした。
1867年伊東甲子太郎が御陵衛士を結成するため新選組を脱隊したとき、斎藤も同行し御陵衛士となりますが、それは表向き。スパイとして情報を近藤たち新選組に流していたのです。その証拠のように、斎藤はのちに新選組に復帰しています。
1867年大政奉還。時代の流れは倒幕へと傾いていきます。新選組は旧幕府軍について戊辰戦争に参加します。斎藤も鳥羽・伏見の戦いや甲州勝沼を転戦。常に最前線で戦ったと言われています。しかし敗戦が続き、ついに近藤も処刑されてしまいます。
再起をかけて会津の地にたどり着いたとき、副長・土方歳三は足を負傷していました。そこで土方に代わって新選組を指揮を任されたのが斎藤です。土方からも信頼され、剣の腕も一流であった斎藤だからこそ指揮をとれたと言えるでしょう。
会津戦争でも奮戦しますがやはり敗戦が濃厚になってきます。土方は援助を求めるため仙台へ向かうことを決意します。ところが、斎藤は会津に残ることを譲りませんでした。隊士はわずか10名余り。それでも斎藤は如来堂へ布陣し、ゲリラ戦を展開し戦い続けます。しかし籠城を続けていた会津藩もついに降伏。斎藤の戦いも終わったのです。
その後斎藤は会津藩士として生きていきます。会津藩士の娘時尾と結婚し、穏やかに暮らします。その後警視庁で勤務しますが、1915年に死去。72歳でした。

 

恩を忘れず最後まで会津に忠義を尽くした

斎藤の人生の半分は会津藩士として生きたと言えます。会津戦争で土方が仙台へ向かおうとしたとき、「会津を見捨てるのは正義ではない」と意見が対立したと言います。ゲリラ戦を展開していた際は、会津藩が降伏してからも最後まで戦う姿勢を見せており、藩主の松平容保がやめるよう説得に行ったと言われるほど。
斎藤はなぜこんなにも会津に忠義を尽くしたのでしょう。それは新選組結成時の恩を、最後まで忘れなかったからと言われています。新選組は、浪士組から京都守護職であった松平容保の御預となり、後ろ盾を得ることができました。浪士上がりだった自分たちを差別せずに受け入れてくれた容保には、この上ない恩義を感じていたのです。時尾との結婚の仲人をつとめたのが容保であったことからも、この思いが感じられます。
最後は東京に移り住んでいましたが、遺言で死んだら会津に墓を建ててくれるよう頼みました。その遺言通り、斎藤は会津若松市にある阿弥陀寺に葬られます。阿弥陀寺は、秋には紅葉の名所となる穏やかな寺。ここには戊辰戦争で戦死した会津藩士たちの墓もあり、ともに安らかに眠っているのです。

 

まとめ 「斎藤一」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

若いときの恩義を忘れず会津に忠誠を誓い、会津のために戦った斎藤一。最後まで志を貫いた斎藤の生きざまは、いまでも多くの人々を魅了しています。ぜひ阿弥陀寺に足を運んで、斎藤の墓参りをしてみてはいかがでしょうか。

 

「斎藤一」の歴史、文化的な価値、魅力

・一流の腕前を買われて新撰組に参加。会津では土方に代わって指揮をとることもあった。
・土方と袂を分かってからも会津に留まり最後まで会津のために戦い続ける。
・若い頃の恩を忘れず、亡くなったら会津に墓を建てるよう遺言を残し、阿弥陀寺に葬られる。

ふかしま。
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