会津若松を築き上げた戦国大名「蒲生氏郷」

2021.01.26
歴史 #会津若松#利休七哲#戦国大名#戦国武将#歴史人物#蒲生氏郷

織田信長に認められその娘婿となり、天下人となった主君・豊臣秀吉もその器量を警戒していたといわれるキリシタン戦国大名「蒲生氏郷」。文武に優れ数多くの功績を残した後に、伊達政宗への抑えとして会津に移封されると大開発を実施。今の会津若松まで続くその礎を築き上げた名将の業績とは。

 

信長に認められる器量を発揮した「レオン」蒲生氏郷

キリシタン大名で千利休の高弟子「利休七哲」の一人、織田信長の娘婿でもあって主君の豊臣秀吉にも恐れられた。こうやって少し数えただけでも属性てんこ盛りの戦国武将、それが“レオン”蒲生氏郷です。さらに戦では自ら敵陣に切り込み奮戦し、アウトローな浪人にも慕われ、一方で戦が終わればお茶や和歌を嗜む文化人。戦国武将には珍しく側室を取らなかった愛妻家で、実直な性格とくれば誰もが評価を惜しまない人物といえるのではないでしょうか。唯一、惜しむべくは40歳の若さで病死してしまったことですが、それでも氏郷への評価は揺るぎないものでしょう。

蒲生氏郷の生涯は、戦国武将としてはよくあるパターンともいえるスタートでした。1556年、六角氏家臣だった父・蒲生賢秀の嫡男として生まれた氏郷は、織田信長によって六角氏が滅ぼされると13歳にして人質として信長の岐阜城に送られることになります。

当時、信長の元には人質として多くの者が送られていて、武将の子女も少なくありませんでしたが、氏郷の才気は信長から見ても特別だったようです。「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん」といって、元服の際に信長自らが烏帽子親となると、14歳で初陣を飾らせ、戦後には本当に娘と結婚させることになりました。

その後、氏郷は姉川の戦い、伊勢長島の戦い、小谷城攻略、長篠の戦い、天正伊賀の乱といった信長の名だたる戦に従軍し、武功を挙げていきます。本能寺の変で信長が自刃すると、信長の一族をかくまって明智光秀と対抗、光秀が山崎の戦いで豊臣秀吉に討たれると、秀吉に従うことになりました。

秀吉に従った後も、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いといった重要な戦さで戦果を挙げ、南伊勢12万石の松ヶ島城の城主に任命されます。氏郷は、ここに新たに松坂城を建築し、そこに新たな城下町を築き上げていきました。信長の安土づくりを間近で見てきた氏郷の手腕は見事で、軍備の強化はもちろんのこと街のインフラ整備、商人や職人の誘致、規制改革などを積極的に行います。キリスト教の洗礼を受けたのもこの頃で以降、氏郷は生涯敬虔なクリスチャンとして生きていくことになりました。

 

ライバル伊達政宗を抑えつけた氏郷の手腕

豊臣秀吉の天下統一事業が進む中、最後の大仕事だった小田原討伐が終わると、残されたのは東北地方の処遇でした。小田原討伐に参陣しなかった大名の処罰、参陣はしたが遅参した伊達政宗、他にも恭順してはいましたが最上義光をはじめ、一癖も二癖もある大名を従わせるために秀吉は東北地方の大名を呼び寄せます。惣無事令の仕上げとなる「奥州仕置」です。

奥州仕置の結果、参陣しなかった大名は改易となり、参陣した大名は所領安堵、ただ遅参した政宗は会津領などを失うこととなります。そして、この会津領を新たに治めることになったのが蒲生氏郷でした。それは恭順したばかりの東北の地ににらみをきかせる重要な役割です。特に所領を減らされた政宗はいつ何をするかわからない警戒すべき相手でした。

氏郷は当初、会津入りには乗り気でなかったようですが、正式に決まると他の大名に追放された浪人や、かつての領地の職人、商人などの人材を集め、会津の町の発展に努めます。今も会津の名品として名高い会津塗(会津漆器)は、氏郷が呼び寄せた職人たちの手によってその基礎は作り上げられたものです。会津に今も残る氏郷と業績として有名なのは、やはり7層天守を擁したという「鶴ヶ城」の改築と城下町の「若松」への改名ですが、キリスト教の奨励や楽市楽座など、最先端の制度や文化を東北の地に次々と導入し、会津を発展に導いていきました。

警戒すべき相手である伊達政宗への対応も見事なものでした。政宗は、氏郷を何度も暗殺しようと試みましたがすべて失敗。領地の境界をめぐって対立した際には、古の和歌を引用し政宗を黙らせます。また、東北では奥州仕置に不満を持つ大名による反乱が頻発しており、氏郷は政宗らとこの鎮圧に駆り出されます。ただ表向きは秀吉側の政宗でしたが、裏では反乱側とも繋がっており支援煽動いていたといわれます。「鎮圧に動いた伊達軍の鉄砲は空砲だった」という報告や、政宗と反乱者の密書などが氏郷の陣に届けられたというのです。これが事実だったのか、それとも政宗の力を削ぐための氏郷の策略だったのかは今も諸説あるようです。

結果だけみれば、政宗は上洛して秀吉に釈明。表向き秀吉はこれを受け入れますが、反乱鎮圧後には政宗の領地だった中通りの6郡を没収。これは明らかに政宗に対する罰であり、秀吉は氏郷の報告に重きをおいたということになります。そして、没収された領地は氏郷に与えられ、会津領と合わせて92万石もの領地を手にしました。伊達領が58万石にまで減封されたことを考えると、氏郷の完全勝利といえそうです。その4年後、40歳の若さで病死するまで、氏郷は戦役に従事しつつも、会津若松をはじめとした領地の発展に努め、その基礎を築き上げていきました。

 

まとめ 「蒲生氏郷」の業績、人柄、その魅力とは?

幼い頃から信長のそばに仕え学び、戦国武将に必要な器量を備えた蒲生氏郷。その手腕で会津をはじめ東北に新たな文化がもたらせました。そんな氏郷に伊達政宗を抑えつける器量を認め、その役割を任せた秀吉も凄い! ただ、本音をいえば「氏郷を近くに置きたくない」という畏怖の表れだったのかもしれませんね。

 

「蒲生氏郷」の業績、人柄、その魅力

・天下人も認める器量良し。文武に優れたエリート戦国武将
・伊達政宗をも凌駕する戦略とその手腕
・会津若松の生みの親。転封後は旧領から人材を呼び寄せ、その発展に大きく貢献

ふかしま。
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