南相馬市の伝承が育てた昭和を代表する文豪・島尾敏雄ってどんな人物?

2021.01.26
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南相馬市ゆかりの作家・島尾敏雄を知っていますか。昭和期を代表する作家で、文学賞も数多く受賞している文豪です。彼は少年期を南相馬ですごし、福島に大変愛着を持っていました。実は島尾は、戦時中は海軍隊長も経験し、その生涯は波乱に富んでいます。今回は島尾敏雄とはどんな人物だったのか、詳しくご紹介します。

 

関東大震災と特攻を免れた数奇な運命

島尾敏雄は1917年に横浜で生まれます。父親は輸出絹織物商を営んでおり、両親とも福島県相馬郡小高町、現在の南相馬市の出身でした。島尾は体が弱く内気な少年で、家のなかで一人遊びをしていることが多かったと言います。母親も体が弱く、島尾は度々母親の実家に預けられてすごします。島尾は小高を「いなか」と呼んで親しみ、いとこたちと遊びました。特に母方の祖母キクから、方言で昔話や説話を寝物語に聞いたことは、彼の作家としての才能に大きな影響を与えました。
1923年関東大震災により自宅が全壊してしまいます。しかしちょうどそのとき島尾は療養のために南相馬におり、迎えに来た家族ともども震災を免れることができました。その後、家族は神戸に移り住みます。
高校時代、友人と同人誌「少年研究」を発行。他にも同人誌に詩や文章を寄稿するなど、文学にのめりこんでいきます。卒業間近の1934年、母親が急逝。島尾はますます文学への思いを強くしていき、様々な同人誌を刊行。またドストエフスキーやチェーホフなどのロシア文学を耽読しました。
第二次世界大戦さなかの1943年、海軍予備学生に志願することを決意。死が身近に迫っていることを意識し、いわば遺書の形で自家本『幼年期』を刊行します。このなかには小高を舞台にした作品や東北論『東北について』なども収録されています。
1944年海軍少尉に任官。隊長として鹿児島県加計呂麻島に赴任します。1945年8月13日、特攻戦が発令。魚雷に乗る出撃命令を待つ極限状態を体験します。しかし命令がないまま、8月15日の終戦を迎えました。

 

代表作は私小説!記念館はルーツの南相馬市にあり

復員後、島尾は鹿児島で出会ったミホと結婚し、文学活動を再開します。三島由紀夫、庄野潤三らとともに同人誌を創刊したり、大学の教員や定時制高校の非常勤講師をしながら執筆を続けます。1948年に『単独旅行者』を刊行し、新進作家として注目されます。1949年に埴谷雄高らの雑誌「近代文学」に参加。埴谷とはともに南相馬に縁があることを驚き合い、長く親交を続けていきました。
1960年に代表作『死の棘』を発表。島尾の浮気によりミホが精神を病んでしまい、転居を繰り返す悲惨な日々を描いた私小説で、夫婦が絆を取り戻そうとする過程が情緒豊かに描かれています。この作品は高い評価を得て、日本文学大賞や読売文学賞など多くの賞を受賞。1976年まで書き継がれていきます。
ミホの精神は徐々に安定していき、1974年ミホも作家として活動を始めます。島尾自身も作品も発表していき、賞も次々に受賞。作家人生もこれからという1986年脳梗塞に倒れ、死去。69歳でした。

島尾は私小説に寄りつつも、戦争体験を描いたものやシュールレアリスムなど、幅広い作風で文学史に残る作品を発表し続けました。
彼の記念館は、ルーツである南相馬市にあります。それが「埴谷・島尾記念文学資料館」です。親交の深かった埴谷雄高との合同の資料館で、自筆原稿や写真など貴重な資料を展示しています。関連資料は合わせて2万点以上。島尾の足跡を丁寧にたどることができます。ちなみに島尾の長男・島尾伸三は写真家で、伸三の撮った埴谷の写真なども。
波乱な人生を送った島尾敏雄ですが、その体験から産み出された数々の作品はいまも多くの読者を惹き付けています。

 

名称  :埴谷・島尾記念文学資料館
住所  :福島県南相馬市小高区本町2-89-1
営業時間:9:00~17:00
休館日 :年末年始・展示替えの際

 

まとめ 「島尾敏雄」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

リアリズムを超えた私小説で芸術的な作品を生み出した島尾敏雄。そのベースは、幼いときにすごした南相馬の環境や、祖母に聞いた地元の物語が作ったと言えるでしょう。昭和を代表する文豪を育てた南相馬市にぜひ足を運んでみてください。

 

「島尾敏雄」の歴史、文化的な価値、魅力

・私小説をつきつめ昭和を代表する文豪となった。
・両親の故郷である南相馬市で幼少期を過ごし、その情緒性を育てた。

ふかしま。
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