友のため主君のため忠義のため戦い続けた男!新選組の鬼の副長・土方歳三

2021.01.26
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動乱の幕末を駆け抜けた男たち、新選組。そのなかでも一二を争う人気を誇るのが、副長であった土方歳三です。端正な顔立ちで今もファンの多い人物ですが、その生涯はどのようなものだったのか知っていますか。会津藩だった福島には土方ゆかりの地がいくつもあります。土方はどんな人物だったのか、そして会津にどんなゆかりがあるのか、ご紹介します。

 

片田舎のバラガキが新選組副長に!若くして散った土方の人生

土方歳三は1835年に武州石田村、いまの東京都日野市に生まれます。25歳のとき、天然理心流に入門。ここで近藤勇、沖田総司らと運命的に出会います。彼らとともに壬生浪士組として、京都に向かい、新選組を結成します。
新選組では副長として、隊士たちを厳しく取り締まりました。京都で最強の部隊となるためには規律が大事だと考えた土方は、局中法度を作りました。決して妥協や例外を許さず、法度を破ったものは切腹という厳しさから「鬼の副長」と呼ばれ恐れられていました。しかし本来は優しい心の持ち主であったと言われ、組を律するために自分を圧し殺し、鉄の掟を課したと言われています。土方は近藤の右腕として手腕を振るいました。新選組のトップは局長である近藤ですが、実際の指揮命令は主に土方が行っていたようです。新選組の繋がりは強固なものとなり、次々に手柄を立てていきます。そして1864年の池田屋事件で、その名を世にとどろかすことになるのです。
しかし徐々に幕府は力を失っていきました。1867年に大政奉還が起こり、1868年の鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発。土方たち新選組は新政府軍に対抗しますが、大砲などの最新兵器を前に敗北を重ねてしまいます。新政府軍に包囲された4月3日、近藤が投降。このとき土方が、近藤の切腹を止め投降を提案したと言われています。土方は近藤を救うため嘆願に駆け回りますが、実現せず近藤は斬首の刑に処せられてしまいます。
近藤が投降したあと、土方は旧幕府軍に合流し戦いを続けます。しかし宇都宮の戦いで足を負傷し、会津若松に入りました。傷を癒すため、指揮を隊長であった斎藤一に任せ、東山温泉で湯治したと言われています。その後母成峠の戦いに参戦。多勢に無勢の戦況に、土方は援軍を求めに行くことを決意します。会津藩主・松平容保を鶴ヶ城に送り、単身仙台に向かいました。
仙台で榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流し、函館・五稜郭に向かいます。最後まで前線で戦いましたが、1869年5月に銃で撃たれ戦死します。わずか35年の人生でした。

 

会津では温泉に浸かったり近藤の墓を建立した

新政府軍との戦いで負った傷を癒すために、土方は会津若松に入りました。傷によく効くとされる東山温泉に約3ヶ月療養した記録があり、土方の負った傷は深かったことを伺わせます。足の傷とともに、敗戦に疲れた心も癒していたのかもしれません。

この療養期間中に、土方は天寧寺に近藤勇の墓を建立します。近藤は京都で処刑され晒し首にされましたが、その後首はどこに行ったのか定かではありません。そのため土方は斎藤に、近藤の首を取りに行かせ会津に届けられたという逸話があります。土方は松平容保公に近藤の戒名をもらい、その首を天寧寺に葬ったとも言われているのです。

会津藩とともに幕府に忠義を尽くすも、最後は逆賊とされ非業の最期を遂げた土方歳三。最後まで戦いをやめず、先に死んでいった仲間たちに恥じない生き方を貫きました。そんな戦いの日々でしたが、会津での療養のひとときは、土方にとって心も休めることのできた貴重な時間だったかもしれません。

 

まとめ 「土方歳三」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

新選組副長としていまでも絶大な人気を誇る土方歳三。鬼の副長として華々しく活躍した京都時代を取り上げられることが多いですが、会津若松にもその足跡は残っています。彼が会津の地で何を思ったのか、ぜひ現地に足を運んで感じてみてください。

 

「土方歳三」の歴史、文化的な価値、魅力

・新選組副長として幕末の時代を生き抜いた姿に多くのファンが魅了されている。
・会津若松では戦いはせず、静かに療養をしていたゆかりの地が残っている。

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