大言壮語? 有言実行? 100年先を見据えた「後藤新平」が行ったこと、考えていたこと

2021.01.25
歴史 #北里柴三郎#南満州鉄道#岐阜事件#後藤新平#板垣退助#歴史人物

医師であり、政治家である「後藤新平」は「大風呂敷」の異名で呼ばれていたそうです。しかし、100年先を見据えていた傑物が考える壮大な計画とそれを実現させるだけの行動力と実践力は常人には理解しがたいもの。そのように言われることも無理ないのかも知れません。ただし、今、私達は「後藤新平」にこそ学ぶ部分が多いのではないでしょうか。氏が何を考え、何を行ってきたのかに迫ります。

 

お金よりも、事業よりも、人を残すことこそが重要である

数多くの功績を残した「後藤新平」ですが、その中でもとりわけ、重要な氏の取り組みについてご紹介します。

 

1 暴漢に襲われた板垣退助を治療する

須賀川市にあった須賀川医学校(現公立岩瀬病院)を卒業した後、愛知県病院長兼愛知医学校長となった「後藤新平」。明治22年「板垣死すとも自由は死せず」の由来となった岐阜事件の際、暴漢に襲われた板垣退助を治療したのがほかならぬ「後藤新平」なのです。

憲政の父・国会を創った男と謳われる板垣退助のその後があったのは「後藤新平」のおかげといえるかもしれません。

 

2 日清戦争の帰還兵に大規模な検疫を実施する

明治28年、検疫部事務官長に就任した「後藤新平」は北里柴三郎の協力のもと、瀬戸内の似島に検疫所の建設を命じ、日清戦争の帰還兵に大規模な検疫を実施します。

当時の帰還兵は23万人以上と言われ、それぞれがコレラや腸チフス、赤痢に感染しており、帰還による上陸により国内で二次感染の恐れがあったからです。

結果、「後藤新平」の読みどおり、検疫の過程で真性コレラが369人、疑似コレラが313人、腸チフスが126人、赤痢が179人も発見されました。もし、帰還兵をそのまま日本に上陸させていれば、大規模な市中感染が起こり、甚大な被害が発生していたはずです。

なお、この検疫事業は世界最大規模で行なわれたものであり、公衆衛生学の先進国であるドイツからも称賛の声が上がったそうです。

 

3 南満州鉄道の初代総裁として現地のインフラ整備を行う

明治39年、日露戦争でロシアから日本のものになった「長春と旅順間鉄道線」こと南満州鉄道の初代総裁に就任した「後藤新平」は、インフラ整備や衛生施設の拡充をはかると同時に、満州の土地開発にも力を入れます。その際、「後藤新平」は。清国人の満鉄の株式所有や重役の登用、ロシアと会談を計画する等、各国と微妙なバランスをとりながら日本、清、ロシアの三国が協力して満州を発展させようと考えます。また、台湾統治時代の優秀な若手も多数引き抜いて経営にあたり、結果、満鉄と満州は大きな遂げました。後に「満州は日本の生命線」と評されますが、これは「後藤新平」の経営手腕によるものが大きいと言えます。

 

4 関東大震災から東京を復興させる

大正12年、相模湾北西部を震源とする最大震度7、マグニチュード7.9にもなる巨大地震・関東大震災に見舞われると、帝都復興院総裁として大規模な震災復興計画を立案します。

その際、「後藤新平」が指導した内容は以下のようなものだったそうです。

 

・昭和通りや明治通り、靖国通り等の大規模な道路の建設
・鉄筋コンクリートの集合住宅の建設
・3,600ヘクタールに及ぶ区画整理の断行
・隅田川公園等の近代的な公園の建設
・隅田川に架かる橋を鉄製に作り変える
・小学校に防災公園を設置して避難場所の役割を果たす

 

ここには地震が発生しても倒壊しない堅牢さ、そして。東京を欧米の都市に匹敵する都市として設計するという思いがありました。

これらにかかる予算は30億円。この壮大な都市計画について、周囲からは「大風呂敷だ」と揶揄され、予算は結果的に10億円まで減額されましたが、これらは今にも通じる考えであることが見て取れます。

 

「後藤新平」が残した言葉

金を残して死ぬのは下だ。
事業を残して死ぬのは中だ。
人を残して死ぬのが上だ

 

まとめ 「後藤新平」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

「後藤新平」が残した言葉は、南満州鉄道の総裁時代の若手の登用や東京震災復興計画の時の「後藤新平」の行動がそのままあらわれています。必要な予算を切り詰めるよりも、事業を発展させること、さらには優秀な人材を育成することの方が、難しいけれど重要であること。この言葉を残し、実践していった「後藤新平」には心服せざるを得ません

 

まとめ

・日本の今の土台を作り上げた

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