奥羽越列藩同盟の誕生と東北の人々が求めたもう一つの道理

2021.01.26
双葉町 #会津藩#双葉町#奥羽越列藩同盟#庄内藩#明治維新#歴史出来事

戊辰戦争の最中、東北諸藩と越後諸藩によって発足した奥羽越列藩同盟。諸藩、そして個人、それぞれの思惑がありながらも新政府による頑なで無慈悲な要求に対抗し、東北地方に自分たちが求める秩序をもたらすための闘争でした。明治維新期に東北で行われた戦いは、どのようなものだったのでしょうか。

 

東北諸藩が新政府に求めた「道理」

「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉は、現代では慣用句のように使われていますが、今からおよそ150年前に勃発した内戦・戊辰戦争はまさにこれの典型のようにいわれることがあります。戊辰戦争の幕開けとなった京都・鳥羽伏見の戦いで新政府軍によって掲げられた錦の御旗は、これぞ官軍の証。それに歯向かった幕府側には「道理がない」ようにもいわれますが、果たして本当にそうだったのでしょうか。戊辰戦争の最中、東北と越後の31の藩によって締結された「奥羽越列藩同盟」は、まさにこの「道理」を求めて結ばれた盟約でした。

奥羽越列藩同盟が発足するきっかけは、幕府で重職を担っていた会津藩と庄内藩が、新政府によって朝敵に認定されたことにありました。会津藩は京都守護、庄内藩は江戸市中の取締りを担っていたこともあり、薩摩や長州といった討幕派の中心であった新政府の要人たちにとっては、過去に拭いきれない因縁ある憎き相手でした。

会津藩主で京都守護職でもあった松平容保は、江戸の無血開城に先立って謝罪状を提出した上で隠居を表明。会津に戻り恭順の意を示しましたが、新政府軍による降伏勧告は受け入れませんでした。新政府は降伏を受け入れない会津藩の態度を反抗の表れと見ており、同じく東北の雄藩である仙台藩や米沢藩をはじめとした東北諸藩に会津征伐を迫ることになります。

新政府からの強硬な征伐要請を受けた東北諸藩では、意見が割れます。すでに恭順の意を示している会津藩に対して同情的な声があった一方で、新政府に同調して会津征伐を行うべきとの声もありました。同じ東北の会津藩、庄内藩に味方するか、それとも新政府に味方するか。どちらが道理なのか。紆余曲折ありつつも諸藩が出した答えは、第三の道。会津藩と庄内藩の罪を赦すように新政府に嘆願することでした。

諸藩の連署によって提出された嘆願書でしたが、新政府は無慈悲にこれを拒絶、より強硬な態度で会津征伐を迫ります。これにより赦免の道は絶たれ、東北諸藩には新政府に同調して会津征伐に加わるか、新政府の敵となって共に戦うかの選択肢だけが残されることになりました。そして、その選択の決め手となったのは、新政府の特使の行動でした。

強硬に会津征伐を迫った新政府の特使、長州藩出身の世良修蔵の態度はかなり苛烈だったようです。仙台藩士を嘲るなどしたとの記録がありますが、このような態度が反感をかうことになり、東北諸藩はより会津藩と庄内藩に同情的になっていきました。

そして、さらに決定的な事件が起こります。とある仙台藩士が、特使である世良修蔵が新政府宛に出した手紙を入手したことがきっかけでした。その手紙には「東北諸藩は全て敵と考えるべき」といったことが書かれていたのです。特使の世良修蔵は怒った仙台藩士と福島藩士によって襲撃され捕らえられると、阿武隈川の河原で斬首されました。この行動は東北諸藩による新政府に対する明らかな敵対表明でした。

 

奥羽越列藩同盟の発足と開戦、その崩壊

新政府との対決姿勢を明らかにした東北諸藩に、越後諸藩を加えた31藩によって奥羽越列藩同盟は発足します。その目的は新政府が会津藩と庄内藩の罪を赦すことにあるため、会津藩と庄内藩は名目上この同盟には加わっていませんが、実質的には参加していました。もちろん新政府側も把握しており以降、実際に戦闘が行われることになっていきます。

その後、上野戦争から逃れて会津藩に身を寄せていた輪王寺宮を盟主とした奥羽越列藩同盟は、新政府軍への抵抗を開始します。新政府軍の侵入を防ぐために仙台藩と磐城諸藩を主力とした同盟軍は、その入口となる太平洋沿岸の平潟や磐城平へ、攻める新政府軍は板垣退助が指揮。会津藩と新選組を主力とした同盟軍は東北地方への玄関口・白河の防衛にあたりました。世界に開かれた港・新潟は米沢藩が守りを固め、新政府軍とのにらみ合いが続き、新潟防衛の要となる長岡では、長岡藩の家老・河井継之助の指揮のもと、山県有朋率いる新政府軍との激しい戦闘が行われました。また、秋田方面では新政府側に寝返った久保田藩に新政府軍が合流し、庄内藩を主力とした同盟軍との戦闘が開始されました。

同盟軍は当初奮戦して戦果をあげますが、次第に軍質に優る新政府軍に推されていきます。そして、ついに防衛の要所の突破を許すようになると新政府軍の進軍を許し、降伏や同盟からの離反が相次ぎました。それでも残された同盟軍は会津に集結し、さらなる抵抗の準備していくことになりますが、もはや崩壊の寸前でした。会津戦争における激しい戦闘の結果、会津藩が降伏すると奥羽越列藩同盟は完全に崩壊することになります。ただ、庄内藩だけは新政府軍に一度も負けることなく秋田戦線を戦い抜きました。また、逃げ延びてさらなる抵抗を望む者たちは、函館へと向かいました。

戊辰戦争では、新政府軍と幕府軍と合わせて犠牲者は8000名以上。中でも会津藩では2000名以上の犠牲者があったといわれます。今になって結果だけ見れば奥羽越列藩同盟の発足とその行動は、戦争の規模を拡大しただけのようにも思えますし、それを非難することは簡単です。ただ、実際にその場所に足を運び、そこで戦った人たちの気持ちを想像してみると、また別の道理が浮かんでくるかもしれません。

 

まとめ 「奥羽越列藩同盟」発足の目的と込められた想い

新政府によって朝敵とされた会津藩と庄内藩を助けるために行動し、結束した結果生まれた奥羽越列藩同盟。その抵抗の成果は芳しいものだったとはいえませんが、そこには東北の人々の固い結束と強い意志がありました。そしてそれは、今も東北という土地とそこで暮らす人々の中で生き続けているのかもしれません。

 

「奥羽越列藩同盟」の目的、行動、そして想い

・朝敵とされた会津藩、庄内藩の赦免を新政府に求めた
・強硬に討伐軍派遣を要請してくる新政府軍との対決を決意
・奥羽越列藩同盟に込められた人々の想い

ふかしま。
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