【楢葉町】戦国ロマン!イケメン…
戦国時代、南東北の岩城郡を領地としていた武将・岩…
2021.03.09
現在の福島県浜通り南部を治めた陸奥国磐城平藩5代藩主で、幕末には若年寄、次いで老中など幕府の要職を務めた人物・安藤信正。氏が江戸城の坂下門のそばで襲われたのが「坂下門外の変」です。福島出身の名大名が江戸から福島へ、そして川内村へと移動してきたのにはこの「坂下門外の変」が大きく関わっています。ここでは「坂下門外の変」とその後の安藤信正の動向を追ってみたいと思います。
「坂下門外の変」は、文久2年(1862年)に、江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正を襲撃し、負傷させた事件です。
この背景には和宮降嫁問題(かずのみやこうかもんだい)があるとされています。この問題は、江戸時代末期,公武合体の象徴として幕府がとった措置で、皇妹和宮親子 (ちかこ) と第 14代将軍徳川家茂 (いえもち) との婚姻により、朝廷を中心とする尊王攘夷運動を抑えつけ,幕府の権力を安定させようとし,孝明天皇の妹で仁孝天皇の第8皇女和宮を将軍家茂に降嫁されるよう朝廷に申入れたもの。その中心となったのが当時の幕府老中の安藤信正と久世広周だったのです。これによって反幕感情を抱いていた尊王攘夷派の水戸浪士の襲撃を受けたと言われています。
なお、安藤信正はこの事件により背中に負傷したものの、その直後に包帯姿でイギリスの公使ラザフォード・オールコックと会見。オールコックは負傷しながらも幕府の権力者として意地を見せる信正の姿に感嘆したといわれいます。
ただし、桜田門外の変に続く幕閣の襲撃事件により、幕府権威は失墜。一部の幕閣から「背中に傷を受けるというのは、武士の風上にも置けぬ」と非難の声が上がる。その上、女性問題やアメリカのタウンゼント・ハリスとの収賄問題などが周囲から囁かれ、4月11日に老中を罷免され、その後、隠居・謹慎を命じられ、所領のうち2万石を減封されました。
老中を罷免され、地元の磐城平に戻って藩を治めている頃に幕末の内戦である戊辰戦争が勃発。賊軍とされた会津藩と庄内藩を救おうと、東北と新潟が同盟を形成した奥羽越列藩同盟に安藤信正も、参加するものの、そのわずか2ヶ月後、磐城平城は小名浜に上陸した新政府軍により陥落してしまいます。
そこから安藤信正の逃避行が開始。逃げ道に選んだのが川内村経由の道なのです。命からがらに逃げた後に悲劇が。川内村についたとき、当時48歳の安藤信正の愛娘が亡くなってしまいました。この時村人にお願いして娘の墓をつくったのですが、これが安藤公遺児の墓です。
なお、「八重の桜」でもおなじみの新島八重が籠城した会津若松城が落城したのは安藤信正公が降伏した、約2ヶ月後。安藤信正はその2年後、明治2年に亡くなっています。現在、安藤信正はいわき市にある良善寺に戊辰戦争で亡くなった戦士とともに眠っています。
良善寺
住所:福島県いわき市平字古鍛冶町107
激動の時代を生きた福島出身の名大名・安藤信正。良きにせよ、悪きにせよ、氏のその後の人生に大きな影響を及ぼしたのが「坂下門外の変」です。安藤信正に関連する記事はほかにも掲載されt例ますので、ぜひご覧になってください。
また、この波乱万丈の人生を生きた安藤信正に興味を持った方はぜひ、川内村、福島県に遊びにきてください。
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