幕末・会津戦争の悲劇の象徴 16~17歳の少年兵「白虎隊」とは?

2021.01.26
歴史 #会津戦争#会津藩#戊辰戦争#松平容保#歴史人物#白虎隊#鶴ヶ城

これまでにも多数映像化、書籍化されている幕末・会津藩の悲劇の象徴「白虎隊」。彼らは会津藩士の子弟で16~17歳という若さの少年兵でした。戊辰戦争・会津戦争のさなか、白虎隊20名は自刃します。なぜ彼らは自刃したのでしょうか? そもそもなぜ会津藩は、戊辰戦争に巻き込まれなければならなかったのでしょうか?

 

旧幕府軍として戦うしかなかった会津藩の白虎隊

幕末の会津藩の軍制は当時交流があったフランスにならって年齢別に編成し、隊名は中国の故事で「方角の守護神」とされていた空想上の動物の名前がつけられていました。50歳以上は「玄武隊」、36~49歳は「青龍隊」、18~35歳は「朱雀隊」、そして16~17歳の少年藩士が「白虎隊」です。

白虎隊は340名程度の予備兵でした。彼らが登場するのは、外交政策をめぐって朝廷や幕府、諸藩の主導権争いが勃発した江戸から明治の転換期、「鳥羽伏見の戦い」に始まる「戊辰戦争」の一局面として会津地方が主戦場となった「会津戦争」です。そのため白虎隊を語るには、なぜ幕末に会津藩が戊辰戦争に巻き込まれていったのかを知ることが重要です。

長く安定した統治がなされ、平和な時代として知られる江戸幕府ですが、徐々に支配体制にほころびが見られ滅亡への道をたどります。国内では大塩平八郎の乱などの内紛・内乱や民衆運動である打ちこわしが勃発するようになり、諸外国が来航しアメリカのペリーのように通商を要求するようになっていました。

幕府の弱体化が露呈されるなかで、「これ以上幕府に政治を任せておけない」と考える武士による尊皇攘夷(天皇を尊び外国を打ち払う)運動が激化しました。そのため京都には日本各地から多くの浪人が流れ込んで治安が悪化します。

そこで、1862年、京都の治安維持のために幕府が新設したのが「京都守護職」です。この「京都守護職」に命じられたのが、徳川家とつながりの強かった会津藩。もともと会津藩は藩祖である保科正之公が徳川二代将軍秀忠の子で、三代藩主正容公の時には松平姓を名乗るようになり、会津松平家は御三家に次ぐ家格を持っていました。

このことから、会津藩は徳川幕府とともに争いに尊皇攘夷派との争いに巻き込まれることになっていきます。

1868年には、天皇の旗を掲げた薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍と、旧幕府軍および会津藩の間で戊辰戦争の幕開けとなる鳥羽伏見の戦いが勃発します。会津藩は時代の流れを察知し、劣勢を感じながらも徳川家とのつながりから旧幕府軍として参加せざるをえませんでした。

 

鶴ヶ城落城を見た20名もの白虎隊少年兵が自刃した悲劇

会津藩の藩士子弟は、10歳になると会津若松城(鶴ヶ城)隣の藩校「日新館」に入学しました。ここでは1,000~1,300名の生徒が学問や武道に励み、白虎隊も会津藩の予備軍として心身の鍛錬につとめていました。

時は1868年正月、朝廷から幕府を討つ命令が出て新政府軍が東に進むと、4月にはついに将軍徳川慶喜が江戸城をあけわたしました。260年以上という長きにわたり続いた幕府政治は終わりを告げたのです。勢いを増す新政府軍は会津に向かって軍を進めてきました。

いよいよ戦闘がはじまり学校が閉ざされますが、白虎隊は毎日訓練を続けていました。新政府軍が会津に迫ると聞き、「自分たちの生まれ育った会津の地を自分たちの手で守り抜こう」と、白虎隊は軍事奉行の監督下となります。予備兵ではなく、会津軍の部隊としていつでも出兵できるようになったのです。

鶴ヶ城を死守するために、街道口に主力部隊を展開し防備しようとしましたが失敗に終わり、橋を破壊して新政府軍を止めようとしたが間に合わず、戦況は悪化。そこで会津軍は鶴ヶ城に援軍を依頼、白虎隊にも出陣命令が下り、彼らは藩主松平容保とともに戦いに赴きます。

しかし、会津藩は戸ノ口原の戦いで壊滅的な打撃を受け、わずかに生き延びた白虎隊士20名は滝沢街道から戸ノ口堰洞穴を通って、ようやく飯盛山にたどりつきます。そこから南西に2kmほどの鶴ヶ城の方角を見ると、天守閣は黒煙に包まれているように見えました。

「鶴ヶ城が落ちたのではないか」空腹と寒さにも耐えかねていた白虎隊の少年兵士は、そう思ったと伝えられています。このままでは敵に捕らえて生き恥を重ねるおそれもあり、それならば武士らしくここで自刃しようという結論にいたりました。かくして、白虎隊士は自刃の道を選んだのでした。

そのうちのただ一人、飯沼貞吉はかろうじて一命を取り留めました。飯沼は晩年になってようやく白虎隊の最期について語り、その悲運は広く人々に知られるところとなりました。春と秋の年2回行われる墓前祭では、白虎隊を偲びその霊を慰める剣舞が奉納されます。

 

まとめ 「白虎隊」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

江戸から明治への転換期・幕末にはさまざまな歴史的事象があります。新しい時代への変化を感じつつも、幕府への忠義を守らなければならなかった会津藩とその藩士子弟である白虎隊。歴史背景と彼らの生きざまに思いを馳せると、武士のプライドの重さを感じるとともに、少年までもが時代に翻弄された悲劇に胸が痛みます。

 

「白虎隊」の歴史、文化的な価値、魅力

・江戸から明治への時代の転換期、会津藩は治安維持のために「京都守護職」として幕府を守っていた
・薩長の新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争で、白虎隊を含む会津藩は徳川家とのつながりから旧幕府軍として参戦せざるをえなかった
・新政府軍が会津に軍を進めるなか、鶴ヶ城が落城したと思った白虎隊20名は自刃を選んだ

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