平将門はなぜ今も人々を惹きつけ愛され続けているのか

2021.01.26
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平安中期に活躍した豪族「平将門」は、朝廷に歯向かった逆賊とされ、討伐された後には怨霊となった伝説などで知られる人物です。一方で、混乱する関東八カ国をまとめ上げ「新皇」を名乗った英雄としても語られます。将門をとりまく数々のエピソードは現代も人を惹きつけてやみません。

 

逆賊? それとも英雄? 関東を支配した新皇・将門

「逆賊」「悪霊」と厳しく評価される一方で、「英雄」「守護神」といったように崇められるなどさまざまな評価がされている平将門。桓武天皇の五世孫という血筋を引く高貴な家柄ながら、将門は官職には恵まれませんでした。

十代で本貫地である下総より京に上り、時の権力者である藤原忠平の家人として仕えましたが、身分は低いままだったといわれています。その後しばらく京での暮らしが続きましたが、アラサー目前ながら出世の糸口はいつまでも見えませんでした。そんな将門に、悲報が届きます。故郷にいた父、良将の訃報です。そして帰郷した将門に待ち受けていたのは、父の所領の多くが伯父たちによって横領されていたという現実でした。

当時の坂東平氏、その一族のほとんど全てが敵になるような厳しい現実に直面した将門でしたが、残された父の所領において力を蓄えると、徐々に武人としての才覚を発揮するようになります。近隣の豪族や一族内での争いに次々と勝利を重ねると、伯父の平国香を打ち取ることにも成功。その後、都から派遣されてくる貴族や地元豪族らによる坂東における権力争いがより激しさを増す中で、将門の影響力は誰もが無視できないものになっていきます。それは、戦上手だったというのも理由としてはあるでしょうが、一番は将門が民衆の味方だったからのようです。

当時の坂東は、都から派遣されてくる貴族と地元豪族、あるいは地元住民との間でいざこざが絶えませんでした。そのような事態の調停仲介といったトラブル解消を将門が行うことで、人々に頼られる存在へとなってきます。将門と対立する者は「将門に謀反の疑いあり」などと朝廷に告訴するなどして、どうにかその影響力を減らそうとする工作が行いましたが上手く行かず、結果的に将門の坂東における地位は、より確固なものになっていったのです。

通称「将門の乱」として知られる承平天慶の乱は、このようなトラブル解消を将門が引き受けたことがきっかけとなりました。常陸国で追補令が出ていた藤原玄明に頼られると、将門は匿って引き渡し要求を拒否し、仲介を申し出ます。しかし、これを常陸の国府は拒否し、お互いに兵を集める事態に発展。ついに戦闘になったのです。

国府軍に比べると寡兵だった将門の軍勢でしたが、その実力は国府軍を数段凌ぐものでした。将門の軍は国府軍を打ち破ると常陸国府を降伏させ、その権力の象徴ともいえる印綬を没収しました。ただ、その行為は朝廷への謀反ととられても仕方のないことでもありました。もう引くことのできない立場になった将門は、前へ進むことを決意します。その後、下野、上野へと立て続けに出兵すると、瞬く間に国府を降伏させ、その印綬とともに関東一円を手中に収めることになりました。そして東国の新たな自治を宣言するかのように、自らを「新皇」と名乗ったのです。

 

将門の死と伝説、その子孫たち

将門謀反の知らせに朝廷は騒然とします。また同時期に西国では藤原純友による乱、東北では蝦夷の反乱が勃発したとの知らせもあり、京の都は驚天動地の騒ぎになったともいわれます。そして朝廷は当時としては驚くべき布告を発します。それは「将門を討ち取った者は貴族に取り立てる」といった内容のものでした。そして、その布告の効果は絶大なものでした。

将門の父の所領を横領し、後に将門に討ち取られた伯父、国香の嫡男平貞盛は、父の敵である従兄弟の将門とは当初は和睦を望んでいましたが叶わず、その後は将門と完全に対立。この頃は、関東一円を支配した将門に追われながらも潜んで再起の機会を伺っていました。そんなとき、あの朝廷の布告が出されたのです。これは、まぎれもなく貞盛にとって追い風となるものでした。貞盛は将門に対抗できる実力者、下野の豪族で「俵藤太」の別名でも知られる藤原秀郷の助力を得て、将門の軍勢に匹敵する数の軍を集めることに成功したのです。

「貞盛と秀郷が兵を集め、迫ってきている」との知らせは、将門の耳にも入ってきました。ただ、ちょうどその頃は農忙期と重なり、将門の軍勢の多くは地元へ帰還している最中でした。将門は、身近にいたわずかな手勢を率いて、これに立ち向かいます。そして幾度かの合戦が行われました。将門の軍は寡兵ながらも奮戦しましたが、次第に追い詰められていきます。そして、天慶3年(940年)2月14日、合戦の最中、奮戦する将門の脳天に矢が突き刺さり、将門は討ち死にしました。自らを「新皇」と名乗ってから、まだ2ヶ月あまりしか経っていなかったといわれます。

討ち取られた将門の首は、京でさらし首とされました。これは日本の歴史上で確認できる中でははじめて行われた獄門刑ということです。この首には有名な伝説があります。晒された将門の首はいつまでも腐らず、まるで生きているかのように人を睨みつけ、夜な夜な叫び声をあげたといいます。そして東国へ向けて自ら飛び立ったというのです。その首が落ちた場所が東京都大手町にある「将門の首塚」です。この首塚も、多くの祟りがあったとの伝説で有名です。

将門の子孫たちは、その後も東国を中心に活動しました。将門の娘で「滝夜叉姫」の伝承のもとになったといわれる如蔵尼は、『今昔物語集』などでも語られるように出家して奥州で隠遁したと伝えられています。庵があったとされる場所は二説あるようで、ひとつは磐梯町の慧日寺、もうひとつはいわき市の恵日寺(ともに徳一大師による開基)です。どちらにも彼女のお墓がありますが、今も将門とその家族が東国の人々に愛されていることが伝わってくるスポットです。

将門の子孫というと千葉氏、相馬氏が有名です。中でも分流である陸奥相馬氏は、鎌倉幕府誕生から明治維新までの間、現在の相馬市を中心に浜通りエリアを統治していた名門。相馬氏の家紋は、将門が使っていた九曜紋と同じで、もう一つの家紋である繋ぎ馬の紋は築土神社(東京都)や相馬中村神社(相馬市)といった、将門ゆかりの神社で今も使われています。

 

まとめ 「平将門」の業績と伝説、その魅力とは?

都では反逆者であり怨霊として恐れられた平将門ですが、地域の人々にとっては理不尽な支配からの解放者として讃えられる英雄でした。だからこそさまざまな伝説が生まれて語り継がれ、今も愛されているのでしょうね。

 

「平将門」の業績、伝説、魅力

・平将門は「反逆者」であり、かつ「解放者」でもある。
・怨霊として恐れられ、守護霊として祀られるようになった数々の伝説。
・その生き様、伝説、地元思いの頼れる人柄、どれも魅力。

ふかしま。
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ふかしま。編集部
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