東京オリンピックのメダリスト!福島が生んだ「いだてん」円谷幸吉

2021.01.26
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あなたはマラソンランナー円谷幸吉のことをご存じですか。1964年の東京オリンピックの出場選手です。2019年の大河ドラマ「いだてん」にも登場し、名前は聞いたことのある方はいるかもしれません。しかしその生涯はどのようなものだったのか、知る人は少ないのではないでしょうか。福島が生んだいだてん、円谷幸吉のことを詳しくみてみましょう。

 

走るのが好きだった少年がオリンピックへ!銅メダル獲得の栄誉

円谷幸吉は1940年に福島県岩瀬郡須賀川町(現在の須賀川市)で生まれました。7人兄妹の末っ子で、子供の頃から兄たちとよく駆け回っていたといいます。本格的に走りを始めたのは、高校生のとき。陸上部に入部し、2年生のとき代走で福島縦断駅伝に出場します。このとき円谷は快走を見せ、区間新記録をマークし周囲から注目されます。それから陸上競技の道を歩み始め、記録を出していきます。

高校卒業後は陸上自衛隊に入隊し、同僚と陸上部を立ち上げます。1961年の青森東京駅伝では、出走した3区画全てで新記録を樹立します。延べ15人を抜き去った記録は伝説になりました。
翌年、円谷はメダリスト養成所と言われた自衛隊体育学校に推薦で入学します。いよいよオリンピックへの道が現実的になりました。東京オリンピック候補選手記録会では、10,000mで日本記録を樹立、マラソンでは君原健二に次ぐ2位を記録します。こうして、初マラソンからわずか7ヶ月でオリンピック出場をつかむのです。

そして迎えた東京オリンピック。円谷はまず男子10,000mに出場し6位入賞を果たします。これは日本男子陸上競技において、戦後初の入賞となりました。そして好調の状態を保ったまま、最終日。男子マラソンスタートの号砲が響きました。次々と有力選手が脱落するなか、円谷は上位にとどまり続け、ゴールの国立競技場にエチオピアのアベベに続き2位で戻ってきます。しかしトラックで、後ろに迫ってきたイギリスのヒートリーに追い抜かれ3位でゴール。銅メダルを獲得したのです。

 

真面目にひたむきに、駆け抜けた生涯

東京オリンピックで、陸上競技唯一のメダル獲得に日本中が熱狂。当然周囲は4年後を期待します。円谷もメキシコオリンピックに向けてトレーニングを始めます。しかし期待のプレッシャーは相当なものでした。円谷は椎間板ヘルニアをわずらい、思うように走れない日が続きます。また信頼するコーチが転任してしまい、レースでもなかなか結果が出ません。私生活では進んでいた結婚話が破談になり、円谷は心身ともに疲弊していきます。そして1968年、メキシコオリンピックの開催年の年明けに、円谷はカミソリで頸動脈を切り自死してしまいます。27歳の若さでした。

円谷は須賀川市にある十念寺に葬られました。また須賀川市では円谷を偲んで、1983年に円谷幸吉メモリアルマラソン大会を開催。この大会は第二の円谷の育成を目指し、いまも続いています。

まったくの無名選手であった円谷は少しずつ力をつけ、ついにはオリンピックに出場し、メダル獲得まで実現します。その裏には生来の生真面目さ、ひたむきな努力があってこそ。そのことがわかる場所が須賀川市にあります。「円谷幸吉メモリアルホール」には、シューズやユニフォームなど貴重な展示を使って、円谷の生涯を教えてくれます。ここには東京オリンピックの銅メダルも展示されています。ゆかりの品々からは真面目でひたむきな彼の姿が立ち上がってくるようです。

 

名称  :円谷幸吉メモリアルホール
住所  :福島県須賀川市牛袋町5番地 須賀川アリーナ内
営業時間:9:00~17:00
定休日 :月曜日(月曜日が祝日のときは翌日)、12/29~1/3

 

まとめ 「円谷幸吉」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

責任感が強く、家族や友人を大事にした真面目な青年であった円谷幸吉。彼の達成した偉業は、のちの陸上競技界に大きな影響を与えました。出身地である須賀川市には、メモリアルホールのほかにも記念碑などゆかりの地がたくさんあります。ぜひ福島に来て、円谷の思いとともに走ってみてはいかがでしょうか。

 

「円谷幸吉」の歴史、文化的な価値、魅力

・東京オリンピックで陸上競技唯一のメダルを獲得する
・須賀川市には多くのゆかりの地があり、その功績を伝えている

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