波乱の人生を歩んだ伊達政宗の正室「愛姫」とはどんな人物だったのか

2021.01.26
歴史 #三春町#伊達政宗#徳川家康#愛姫#戦国武将#歴史人物#田村清顕#相馬顕胤#豊臣秀吉

今や遊技機のモデルにもなるなど、伊達政宗の正室というより本人そのものに注目が集まる愛姫(めごひめ。通称、田村御前)。現在の福島県田村郡三春町にあった三春城主の田村清顕と相馬顕胤の娘・正室於北の間に生まれたの一人娘・愛姫とはどんな人物なのか。その激動の人生に触れます。

 

争いの絶えない隣国との争いを避けるため後ろ盾として父が伊達政宗のもとへ嫁がせる

永禄11年(1568年)に福島県田村郡にある三春城の城主・田村清顕の一人娘として誕生した愛姫。「めご」というのは、東北の言葉で「可愛い」「愛らしい」といった意味を持ちますが、これを名付けたのは父の田村清顕。そこからも愛姫にどれほどの愛情を注いでいたか察して余りあります。なおこの田村氏、もとは奈良時代末期から平安時代初期に朝廷の命で蝦夷征伐に出向いた坂上田村麻呂を祖とする名家で、代々田村郡を領してきました。そんな由緒ある田村家に生まれたのが愛姫だったのです。

ただ、この田村家が領する東北の地は、昔から隣国の佐竹氏や蘆名氏、相馬氏などとの戦が絶えない土地でもあり、一方で少し前までは敵同士だったが、今は味方であるというような複雑な相関図をもった土地でもあります。そのため戦となった場合に備え、いつでも援助を受けられるよう、東北地方では互いの家での婚姻関係が続きました。

愛姫の祖父である田村隆顕も、伊達政宗の父である伊達輝宗の妹を妻にしていました。当時の田村家も、隣国の佐竹氏や蘆名氏と戦を繰り返していたため、東北では強い勢力を持つ伊達家という後ろ盾が必要だったのです。ところが、長年争っていた佐竹氏と蘆名氏が和睦し、協力関係となったことで、佐竹氏・蘆名氏の両氏が、田村家の領土を攻めようと画策していました。

そんな状況下で田村家の当主である田村隆顕が急死。息子・田村清顕が家督を継いで当主となりますが、田村清顕には跡取りとなる息子はおらず、子は愛姫ただひとり。力の弱い田村家では自力で領国を守ることは困難でした。そこで悩み抜いた田村清顕は、愛姫を伊達政宗のもとに嫁がせたのです。そこでは、「将来、愛姫が産んだ子のうち、嫡男は伊達家の跡取りとして、次男を田村家の養子とする」という内容の盟約を取り付けます。

天正7年(1579年)に数え年12歳で又従兄弟に当たる伊達政宗の元に嫁ぐ愛姫。 ところが、自分の暗殺未遂事件に田村家からの内通者の関与があったと疑った政宗によって、彼女の乳母は殺害されれ、他に多くの愛姫付きの侍女たちが死罪にされたため、一時夫婦仲が悪くなったと伝えられています。

その後、夫婦関係は修復に向かい、愛姫は京都聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)には五郎八姫(松平忠輝室)を出産。それから忠宗(仙台藩2代藩主)・宗綱・竹松丸と、政宗との間に4人の子をもうけました。

 

その半生は豊臣秀吉や徳川家康のもとで過ごす人質生活。離れた場所から夫を気遣う

夫婦離れ離れ、聚楽第の伊達屋敷に住むことになったのはなぜか。それは天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、自身が住まう京都に、従えた大名達の妻子を住まわせ、妻子を豊臣秀吉の手元に置くことで、従えた大名達が反旗を翻すことがないようにとの人質の意味合いも持っていました。

そこで愛姫も他の大名家の妻子達と同じように、「聚楽第」(現在の京都市上京区)内にある伊達家屋敷に入りました。そんな生活のなかでも愛姫は、豊臣秀吉や大名同士の動向などを警戒し、いわば外交官的役割で情勢の細かな変化を東北にいる夫・伊達政宗へ伝えております。また印象的なエピソードとして「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな。匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送っているそうです。そういったことからも、夫婦仲が疎遠どころか、複雑な心象を伝える間柄であったことが分かっています。

時代が進み「関ヶ原の戦い」や「大坂冬の陣・夏の陣」の合戦を経て、天下は豊臣家から徳川家へと移行。それでも、愛姫が人質生活から抜け出すことはありませんでした。

伊達政宗は生涯、少なくとも7人の側室がいましたが、それでも正室である愛姫を大切にしていたと言います。「参勤交代」により1年ごとに江戸と国元を行き来し、離れて暮らすことの多かった伊達政宗は、特に愛姫を気遣い数多くの手紙を書いて送っていたと言われています。

1636年(寛永13年)に、伊達政宗は江戸の伊達屋敷で70年の生涯を閉じましたが、その直前には、愛姫が伊達政宗の容体が悪いことを聞き及び、直接会おうとしますが、伊達政宗はそれを許さなかったと言います。伊達政宗は「容体が良くなったら、こちらから会いに行く」と手紙で返事をするのみでしたが、家臣には「情愛深いからこそ会わないのだ」と話していたとも伝わっています。

夫・政宗が死去した後、愛姫は瑞巌寺の雲居禅師の元で仏門に入り、落飾して陽徳院と称しておりましたが、承応2年(1653年)86歳で死去。墓所は政宗が眠る瑞巌寺に隣接する陽徳院です。

そのほか、慶長18年(1613年)に高田城の普請のために越後国にいた政宗から愛姫に送られた書状には、春秋の季節感や天然自然の草木、花鳥風月について、仏教の無常感を土台に語りかけている。「枕草子」や「徒然草」が引用され、「源氏物語」の「花宴」の一句で締めくくるなど、その文言は高尚で、夫婦仲が疎遠どころか、複雑な心象を伝える間柄であったことが分かっています。

 

まとめ 「愛姫」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

いかがでしたでしょうか。名武将にそれを支える聡明な妻あり。政略結婚からはじまた政宗と愛姫のですが、2人のやり取り、政宗死去の後の行動をみても。その関係は距離が離れていても盤石なものであったことがわかります。愛姫にまつわるものは福島県にひろく展開されておりますので、もっと詳しく知りたい人はぜひ、現地まで足を運んでみてくださいね。

 

まとめ

・三春城主の田村清顕の娘にして名武将・伊達政宗の妻として献身的に支える

 

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ふかしま。編集部
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