激動の幕末を懸命に生き抜いた会津女傑の物語「八重の桜」

2021.01.26
歴史 #什の掟#会津女傑#八重の桜#大河ドラマ#幕末#新島八重#歴史出来事#鶴ヶ城

2013年、福島はNHK大河ドラマ「八重の桜」の舞台となりました。ときは幕末、会津藩・砲術師範の家に生まれた山本(新島)八重が主人公です。鶴ヶ城の籠城戦では男装し、鉄砲を手に新政府軍と戦った女傑として知られます。激動の幕末から明治、昭和初期を力強く生き抜いた新島八重の物語についてお伝えします。

 

鶴ヶ城に立てこもり新政府軍に銃を放った八重

「八重の桜」の物語は、八重が砲術を習いたいと申し出るところから始まります。会津藩の砲術指南をする山本家に生まれた八重は力も強く男まさりで、裁縫よりも砲術に興味を示し、兄・覚馬に才能を見出されて砲術を身につけていきます。

長きにわたる江戸幕府の支配体制に疑問を持つ薩長により尊王攘夷の動きが加速していく中、9代目会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が幕府から京都守護職に任命されたことを受け、会津藩は新政府軍と対立関係に陥ります。藩祖・保科正之からの教えにより徳川将軍家に忠誠を尽くすことを決めていたからです。

1868年1月、いよいよ戊辰戦争の発端となる鳥羽伏見の戦いが勃発します。敗戦した幕府軍を守っていた松平容保を藩主とする会津藩は朝敵とみなされ、新政府軍による追討が始まります。圧倒的な戦力差により、白河口の戦いや二本松の戦いでは次々と敗れ、じりじりと北上してくる新政府軍が次に狙ったのは鶴ヶ城(若松城)でした。

このとき、断髪・男装の上で鶴ヶ城に籠城し、スペンサー銃で勇ましく新政府軍を迎え撃ったのが八重です。1か月にわたる籠城戦を戦い抜きますが、夫・川崎尚之助との別れや白虎隊の自刃、組んでいたはずの奥羽越列藩同盟が崩れたことなどにより、同年9月ついに降伏を決めました。

 

敗戦から立ち上がり、京都での学びやその後を支えたもの

敗戦から3年後の1871年、離縁し銃を捨てた八重は、京都府顧問の兄・覚馬を頼って京都へと向かいます。そこで英語や異国文化を学び、宣教師として知り合った新島襄と1876年に再婚。同志社大学の設立を支えます。1890年に襄を亡くしてからは、日清・日露戦争に篤志看護婦として従軍し、1932年に自宅で息を引き取ったと伝えられます。

ドラマでは、看護婦として従軍した功績が認められ、時期が訪れたら何度でも咲く桜に八重をたとえたころで最終回を迎えます。「八重の桜」をおして見えてきたものは、激動の時代を生き抜く八重の力強さとそれを支えた会津藩の教えといっていいでしょう。

会津藩には日新館という藩校があり、そこには「ならぬことはならぬものです」で終わる「什の掟(じゅうのおきて)」が伝わります。什とは10人前後のグループで、6~9歳の藩士の子どもたちはそこで日々学び合っていたとされ、砲術指南役の家に生まれた八重もこの教えを身につけていたといわれます。

どのような状況にあっても、自分を見失うことなくやるべきことにまい進した八重。会津の誇りを生み出した什の掟は、「あいづっこ宣言」として現代にも脈々と受け継がれています。

 

まとめ 「八重の桜」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

鶴ヶ城での籠城戦において、女だてらに新政府軍に銃口を向けた山本(新島)八重。その生涯を追った物語「八重の桜」は、東日本大震災の復興を願って制作年度が前倒しされました。会津藩の教えを胸に幕末を駆け抜けた八重の姿は、きっと多くの人に勇気を与えたことでしょう。

 

「八重の桜」の歴史、文化的な価値、魅力

・「八重の桜」は幕末を力強く生き抜いた会津の女傑・新島八重の物語
・八重は、鶴ヶ城籠城戦のとき、迫り来る新政府軍にスペンサー銃で応戦した
・会津藩の教え「什の掟」は八重の原動力のひとつであり、その教えが今も受け継がれている

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