激動を明治まで生き抜いた「磐城平藩」とはどういう藩なのか

2021.01.26
歴史 #内藤政長#坂下門外の変#安藤信成#安藤信正#富岡町#歴史出来事#石田三成#磐城平藩

1976年に福島県に編入されるまで現在の福島県浜通り南部を治めていた「磐城平藩」。築城から戊辰戦争後に消滅するまで、この藩は多くの歴史的な事件や出来事に巻き込まれてきました。「磐城平藩」とはどんな藩だったのか。その歴史を追ってみたいと思います。

 

戊辰戦争によって藩のシンボルである磐城平城が焼失してしまう

もともとこの福島県浜通り南部一帯は平安時代末期から岩城氏が支配してきた地域でしたが、関ケ原の戦いで石田三成率いる西軍に就いたため、徳川幕府から領地を没収されます。岩城氏の後に、磐城平藩は、徳川将軍家の側近である鳥居、内藤、井上、安藤が治めることになります。

岩城氏が去った後に浜通り南部を最初に治めた鳥居忠政は、岩城の「岩」の字を変更して「磐城平」に都市名を変更しました。これは、関ヶ原の戦いで岩城氏が徳川氏に敵対したため、「岩城」の字を忌避してのことと言われています。また、鳥居氏は岩城氏が居城とした大館城(飯野平城)の東に新たに磐城平城を築きましたが、建設する際に、治水のため丹後という翁を人柱とした話があり、今日でも「丹後沢」の名前で残っています。

次に磐城平に入った藩主の内藤政長は約10年にわたって領内の総検地を行ったほか、磐城平藩にとって最初の成文法である「家中法度」「諸代官郷中取扱之定」「郷中御壁書」を制定。さらに、新田開発も盛んで、用水路の普請を行いました。安定的な藩経営が行われると思われましたが、忠興が隠居して藩主に就任した者が内藤義概は、若い頃から和歌・俳諧にあけくれ、終いには藩政を小姓の松賀族之助に委譲。これに加え、後に続く藩主の義孝、義稠、政樹の代まで天災などのため財政が圧迫されます。これらが重なったことで、農民らの不満が爆発。元文3年(1738年)に百姓一揆が勃発しました。この結果、罰的な意味もあり内藤氏は日向延岡に転封となりました。

その後、10年間、磐城平藩を支配した井上氏の後に美濃加納藩主・安藤信成が入封。藩校施政堂を創設して藩士の子弟を教育に力を入れました。歴代藩主の中で最も有名な人物は、第5代藩主・安藤信正ですが、文久2年(1862年)の坂下門外の変で失脚、強制隠居処分に処され、所領も4万石に削減されました。

1868年の戊辰戦争では信正は佐幕派として新政府軍と戦うべく、奥羽越列藩同盟に加入しますが、藩庁である磐城平城での攻防戦で敗北し、磐城平城は焼失してしまいました。

 

明治政府軍に敵対した会津藩と、会津藩を擁護した磐城平藩と中村藩を合併して福島県が生まれる

「磐城平藩」を語る上で欠かせない出来事が磐城平城攻防戦でしょう。合計に3回にわたる新政府軍と奥羽列藩同盟の戦いはお互いにおびただしい被害を被り、また数々の歴史的な契機を生み出しました。

最終の第三次磐城平攻防戦では、「磐城平藩」の象徴である磐城平城包囲され、最終的には陥落するに至ります。最後は守備隊が自ら城内に火を放っては全軍引き上げを開始。火の手をみるや、薩摩藩兵はすぐさま城内に侵入し、磐城平城は焼け落ちました。

戊辰戦争後、「磐城平藩」を含む列藩同盟軍の藩は新政府軍に加わった藩に一時預かりとなり、泉藩、湯長谷藩のとともには笠間藩に預けられることになりました。その後、新政府はこの処置を直轄へと改めて、直轄地機関である民政局を奥羽越同盟の各城下町に設置して強い統制下に置き、浜通りにも磐城平に民政局が設置されました。

明治4年に明治政府は廃藩置県を実施。最終的には磐城平藩・中村藩・会津藩の各領土が一緒にさせられているが、戊辰戦争で長州藩(明治政府軍)と敵対した会津藩と、会津藩を擁護した磐城平藩と中村藩(奥羽越列藩同盟軍)が合併されて、今の福島県が成立することになります。

このような背景のなかで浜通りは自由民権運動が活発化する動きをみせてくるのです。

 

まとめ 「磐城平藩」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

好きな武将や出来事を切り取って知見を深めていくことも良いですが、一連の流れの中でどのような変動を迎えてきたのか。点ではなく線で確認することで武将や出来事のみえ方が変わってくるのも歴史の面白いところです。結果、消滅してしまった「磐城平藩」ですが、その功績や歴史は色あせません。みなさんもぜび、この記事を下敷きに福島の昔と今に興味をもっていただければ幸いです。

 

まとめ<h3>
・福島県浜通り南部の当時を知るための重要な手がかりとなっている

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