自由民権運動の主導者「板垣退助」と福島を代表する偉人・河野広中、後藤新平の繋がり

2021.01.25
双葉町 #双葉町#後藤新平#板垣退助#歴史人物#河野広中

軍人・政治家であり、憲政の父・国会を創った男として知られる「板垣退助」。氏のエピソードについては枚挙に暇がないですが、福島を代表する偉人「河野広中」「後藤新平」の2名もまた、「板垣退助」と深い関わりをもつ人物として知られています。ここでは「板垣退助」とゆかりの深い福島県民として「河野広中」「後藤新平」の2名についてご紹介します。

 

「西の板垣、東の河野」と評される東北民権運動の父「河野広中」

三春町町役場脇にある「自由民権ひろば」。ここに建てられている立派な口ひげをたくわえた男性こそ、福島が生んだ政治家(武士)の「河野広中」です。嘉永2年(1849年)、陸奥国三春藩郷士・河野広可の息子として生を受けた「河野広中」は、幼くから儒学を学び、その影響から尊皇攘夷論を唱えるようになりました。

戊辰戦争時には、「河野広中」がいる三春藩は当初、反新政府軍の奥羽越列藩同盟に加担していましたが、尊皇を奉じる河野らはこれに反対。兄・河野広胖らと共に明治政府への帰順を思案し、美正貫一郎の仲介を経て東山道総督府軍先鋒の参謀であった「板垣退助」に決死の覚悟で会見したといいます。

明治維新後はジョン・スチュアート・ミル著の「自由乃理」(中村正直の訳)を読み、自由民権運動に開眼。西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議したといいます。その後、自由民権運動に共鳴して石陽社を結成、「東北民権運動の父」としてその名を轟かせます。

現在の全国的な知名度ではやや劣るものの、その功績や活動は当時「西の板垣、東の河野」と評されるほどだったそうです。

 

関東大震災から東京を復興させた 国家の医師「後藤新平」とは

陸奥国胆沢郡鹽竈村(現:岩手県奥州市水沢)で生まれた後、医学を志すため須賀川市にあった須賀川医学校(現公立岩瀬病院)に入学した「後藤新平」もまた、「河野広中」と同じく、功績に対して知名度が見合わない人物のひとりといえるでしょう。

「後藤新平」の本職は医師なのか、政治家なのか。判断に困る理由はその経歴にあります須賀川医学校を卒業した後、明治14年(1881年)に愛知県病院長兼愛知医学校長となります。実は「板垣退助」と出会ったのはこの頃。自由党党首であった板垣退助が岐阜県で暴漢に襲われた岐阜事件、「板垣死すとも自由は死せず」の由来となった事件ですが、この時、「板垣退助」を治療したのが「後藤新平」なのです。

こう語ると、「後藤新平」についてご存知でない方は、医師として偉大な人物であったのかと思いがちですが早計です。ここから氏の経歴が大きく舵を切ります。

愛知県病院長兼愛知医学校長となった2年後の明治16年にはなんと、内務省衛生局に入局します。内務省とは地方行財政、警察、土木、衛生、国家神道などの国内行政の大半を担う行政機関で、医師が就く機関としては一般的ではありません。

内務省衛生局に入局した後、ドイツへ留学。そして内務省衛生局長になった後は、今度は台湾総督府民生局長となって統治計画を推し進めます。そのなかで南満洲鉄道の初代総裁となると、数々の事業を軌道に乗せる「後藤新平」。その功績が認められ、第2次桂太郎内閣の逓信大臣兼鉄道院総裁を務めます。

様々な要職で活躍する「後藤新平」ですが、なかでも氏の功績として高い評価を受けているのが関東大震災後の復興計画とその活等です。関東大震災の翌日に発足した第2次山本権兵衛内閣で内務大臣となり、就任5日目には閣議に「帝都復興ノ議」を提出して「帝都復興院」を創設したことです。

大規模な区画整理や道路計画を打ち出し、近代的な橋梁や復興小学校の整備を盛り込むなど、焼け跡に近代的な首都のグランドデザインを描いた。この東京復興計画は、現在でも有効だとして高く評価されています。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。歴史の偉人「板垣退助」と福島の偉人のなんとも奇妙な関係と、その後の2名の活躍。いずれも偉大な功績を残しながら知名度で言えばそれほどではありません。ぜひ、この記事を読んだ後に、「河野広中」と「後藤新平」についてもっと深く、興味を持っていただければと思います。

 

まとめ

・東北における自由民権運動を推進させた「河野広中」
・関東大震災後、日本の復興に尽力した”医師”「後藤新平」

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