鎌倉時代に栄華を極めた氏族「岩城氏」が幕末以降、苦難の道を強いるまで

2021.01.25
富岡町 #大館城#奥羽越列藩同盟#富岡町#岩城氏#歴史人物

岩城櫺子に月を使用した家紋の「岩城氏」は、大館(いわき市好間町大館)を居城として岩城郡、岩崎(磐前)郡、楢葉郡、菊田庄(郡)などを支配していた氏族です。平安時代末期より起源を持ち、幕末には苦難の道を歩んだ福島を代表する氏族のについて紐解きます。

 

鎌倉時代には磐城一帯を領国支配する

「岩城氏」の起源は平安時代末期にまで遡り、現在の浜通り夜ノ森以南、いわき市があたる陸奥国南部を治めたいたとされています。祖は常陸平氏の一族と称した岩城則道、奥州藤原氏とも関係が深く、岩城則道の正室が徳姫(藤原清衡の養娘、血統は源頼義の流れの娘とされるが不詳)といわれています。

鎌倉時代には、幕府が滅亡し南北朝の内乱期を迎えるとはじめ南朝方についたが、のち北朝に転向。岩城一族は次第に好島荘領所職の伊賀氏の支配を排除し、岩城惣領の隆泰は文和三年(1354)ころに伊賀盛光に代わって岩城郡の守護を努めていたとみられる。

鎌倉時代になると地頭であった岩城氏は好嶋庄の預所・伊賀氏と度々訴訟で争った記録が残されています。伊賀氏といえば、当時は備前国や美濃国にも所領を持つ有力御家人でありましたが、南北朝時代に海道検断職まで務めた伊賀盛光の輩出後は衰退を始める。代わって台頭したのが岩城隆泰で、衰退した伊賀氏(飯野氏)などを支配下に置き、磐城一帯を領国支配します。

嘉吉2年(1442年)から嘉吉3年(1443年)にかけて勃発した内紛「岩城左馬助の乱」を、岩城氏の庶流である白土系の岩城隆忠が鎮圧して以降は、その隆忠の系統が当主になり、隆忠の子で10代当主・岩城親隆や子の常隆は、白河結城氏や常陸国の佐竹氏の内紛に介入し、軍事的にも外交的にも成果を収め、大館城(飯野平城)を居城とし、常陸から南東北にかけて勢力を伸ばしたといいます。

 

奥羽越列藩同盟に参加し、苦難の歴史を歩むことになる

岩城氏15代当主・岩城重隆の代になると、近隣の相馬氏や田村氏との抗争が激化、さらに後に伊達政宗を排出する伊達氏や蘆名氏などの新興勢力が多数乱立。加えて、佐竹氏との同族化のため、岩城氏の影響力は相対的に目立たなくなりました。

そこで一計を案じた重隆は陸奥守護・伊達稙宗と稙宗の婿・相馬顕胤の圧力を受けて、娘である久保姫を伊達晴宗に嫁がせ、その嫡男である親隆を養嗣子として迎えます。

天文11年(1542年)からの伊達氏の天文の乱に際しては遠交近攻の策をとり、稙宗派の田村氏や相馬氏と争う形になります。しかし親隆の時代には勢力を強めた佐竹義昭・義重父子との抗争に苦しめられ、佐竹氏から室を迎えたものの親隆治世の末期と子・常隆の代には一時佐竹氏に家中の主導権を握られる状況となりました。

さらに常隆の代は父・親隆の実弟である伊達輝宗とその子・政宗が南奥で勢力を増したため、岩城氏もその圧迫に悩まされることとなります。政宗の正室・愛姫は岩城氏の宿敵である田村氏の娘であったため、常隆は伊達氏より離反し、佐竹氏との関係を強めるものの、政宗が蘆名氏を破って南奥を制覇すると、再び伊達氏と接近します。

佐竹義重の三男・岩城貞隆が岩城氏を継ぐと、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで当初は東軍方についていましたが、実兄・佐竹義宣の命に従って、徳川家康の上杉景勝征伐に参加しなかったため、所領(現在の浜通り夜ノ森以南)12万石が没収されます。

岩城貞隆は岩城氏を継いだ際、先代・常隆には政隆という実子がいたが、幼少であったため、秀吉の意向で佐竹氏より貞隆を養子に迎えることになり、政隆は伊達氏の家臣となります。。ところが、後に貞隆・宣隆の系統が断絶した結果、伊達氏から急遽迎えることになった養子は政隆の直系の子孫である岩城隆恭。このため、親隆-常隆の系統が150年ぶりに岩城氏当主に返り咲くことになりましたが、このことが宗家である秋田藩との関係に亀裂を生むことになり、幕末には奥羽越列藩同盟に参加して官軍側に付いた秋田藩と対立するなど苦難の歴史を歩むことになるのです。

 

まとめ 「岩城氏」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

ダイジェストでお伝えしてきた「岩城氏」の歴史ですが、これに限らず、崩壊は内部から起きてくるものだということがまざまざと見せつけられます。長く磐城一帯を支配してきた「岩城氏」がどのような道をたどってきたのか。現代でもそこから学ぶことは多そうです。

 

まとめ

・「岩城氏」の歴史を通じて東北の鎌倉時代から幕末までの様子がよく理解できる

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