関東大震災に被災した東京を世界に通用する都市に改造しようと奔走した医師「後藤新平」

2021.01.25
歴史 #帝都復興院総裁#後藤新平#戊辰戦争#歴史人物#須賀川医学校

福島県内において、東日本大震災の未だ癒えず、痛々しい傷跡を各所に残しています。私達はこれから何をすべき、どう行動すべきについて重要な指針を示してくれる歴史上の偉大な人物がいます。それが「後藤新平」です。関東大震災に被災した後、帝都復興院総裁として誰も思いつかない壮大な計画を立て、その実現に向けて奔走した偉人に焦点をあてます。

 

意思を志して須賀川医学校に入学。医師になった後に政治家に転身

後に偉大な功績を残す「後藤新平」がどんな半生を歩んできたのか。まずはその辺りを解説したいと思います。

「後藤新平」は現在の岩手県水沢市、当時の陸中国肝沢郡塩釜村で水沢藩士の家に生まれます。なお、後藤家は代々仙台藩の出城のある岩手県水沢市で城主留守氏の家臣だったという名家でありました。

ちなみに「後藤新平」は江戸時代後期の医者・蘭学者であり、蛮社の獄で命を落とした高野長英を大叔父に持っていたため、高野長英に容貌も性格もそっくりだった「後藤新平」は、幼いころから“謀反人の子”と蔑まれて育ったそうです。追い討ちをかけるように、水沢藩は奥州越列藩同盟として、戊辰戦争(1868-1869)で薩長を中心とした官軍にやぶれると後藤家も“朝敵”の汚名をきせられ、平民に落とされたそうです。

その後、医師になるべく猛勉強した「後藤新平」は無事、須賀川医学校に入学。卒業後、24歳で愛知県病院長となります。しかしその2年後、「個々の病人をなおすより、国をなおす医者になりたい」と内務省衛生局へ入局。今度は行政官としての道を歩み始めます。

その後、衛生局長となり、日清戦争の帰還兵のためのコレラ上陸阻止プロジェクトで世界的な実績をあげると、続いて台湾総督府民政局長、そして南満州鉄道の初代総裁を務め、地域産業の振興や南満州鉄道の育成を図り、破綻しかけていた台湾を見事に”復興”させます。

植民地経営でその手腕が認められた「後藤新平」は帰国後、大正9年に東京市の市長となります。視聴になって3年後、東京は関東大震災に見舞われます。

 

被災した東京の復興に向けて「大風呂敷」と揶揄されるほどスケールの大きい計画を立案

東京の住宅被害数は20万5,580軒、死者行方不明者は7万387人と言われている関東大震災の翌日、「後藤新平」は帝都復興院総裁として大規模な震災復興計画を立案します。その内容が下記です。

 

・大規模な道路の建設
・木造ではなく鉄筋コンクリートの集合住宅の建設
・3,600ヘクタールに及ぶ区画整理の断行
・隅田川公園等の近代的な公園の建設
・小学校に防災公園を設置して避難場所の役割を果たす

 

今では当たり前になったこれらのことを予算30億円を費やし実行しようとします。

当時は、この壮大過ぎる計画に対して「大風呂敷だ」と揶揄され、予算は結果的に10億円まで減額されましたが、大通りの整備、火災で焼け落ちることのない鉄橋や大小様々な公園を実現しました。この時「後藤新平」の目には単なる復興ではなく、この機会に欧米の都市に匹敵する都市として設計することを考えていたと言われています。

復興事業完了を記念する式典が行われたのは「後藤新平」が死去した翌年の1930年。その姿を目にすることは叶いませんでしたが、「後藤新平」の主導した街づくりは現在の東京にも活かされているのます。

 

まとめ 「後藤新平」の歴史、文化的な価値、魅力とは?

医師から国を治す医者になるべく、日本の幹部を片っ端から診断した「後藤新平」。その壮大過ぎる計画や行動力は、日本にとって対処療法というより原因療法に近かったのかも知れません。当時にはわからなかった氏の考え、行動が今の日本に生きている。氏は人生を通して、復興とは何かについて重要な示唆をしてくれている気がしてなりません。

ふかしま。
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