【南相馬市】680年国替えナシ。2つの系譜で護り続けた、奥州相馬氏の物語

2021.01.28
南相馬市 #下総相馬氏#伊達政宗#南相馬市博物館#相馬義胤#相馬野馬追#陸奥相馬氏

甲冑をまとい、神旗を争奪すべく躍動する騎馬武者たち……。南相馬の街は、1年に3日間だけ勇壮なサムライが主役の戦国時代にタイムスリップします。神事「相馬野馬追」が今に伝える南相馬の歴史ロマンは壮大かつ神秘的! 今なお多くの史跡が残っていることも、この地を訪れる人を惹きつけてやみません。歴史文化のふるさとと称され、近年その文化的価値が再発見されている南相馬市に眠る歴史ストーリーをご紹介します。

 

史跡の多い南相馬市は歴史のふるさと

 

南相馬市の歴史散歩に欠かせないのが「南相馬市博物館」。縄文時代から中世、そして現代に至るまでの貴重な史料がここに展示され、南相馬市の大きな流れを知ることができます。

 

「南相馬市は下総から移った相馬氏によって繁栄したところですが、実は縄文時代から多くの文化が育った場所で、市内には貝塚や古墳も数多く残されています」

 

博物館学芸員の二上さんによれば、この地は「歴史のふるさと」とも呼べるほど史跡が多く、その密集度は全国的に珍しいほどだそう。しかも、名門大名相馬氏の支配が長かったために、歴史の流れがわかりやすく、日本史フィールドワークの題材にも最適だといいます。

 

南相馬市博物館と学芸員の二上文彦さん

南相馬市博物館と学芸員の二上文彦さん。この施設では古墳時代から中世、近代までの南相馬市について豊富な史料を見ることができる

 

 

国替えのなかった名門大名、相馬氏が最初に築城した小高城

 

奥州相馬氏は、南相馬市の歴史を語る上で欠かすことができない名家。その支配は、源頼朝から領地を授かった文治5年(1189)から明治維新まで、680年にもおよびます。ひとりの大名がこれほどまで長く領地を治め続けることは全国的に見てもきわめて珍しいことでした。

 

今から約700年前のこと。当時下総(現在の千葉県北部)を治めていた千葉一族の相馬重胤(しげたね)らは、嘉暦元年(1326)に陸奥国行方郡に入りました。重胤の子である光胤(みつたね)は、建武3年(1336)にこの地に小高城を築きます。その直後に北畠顕家(きたばたけ あきいえ)率いる南朝方の攻撃で落とされてしまうものの翌年には奪い返し、小高城は以後280年間にわたって政治や軍事の拠点となりました。

 

現在、小高城跡地は小高神社となっており、こちらは「相馬野馬追」の野間懸(絵馬奉納の起源ともいわれる)が行われる場所としても知られています。小高川北岸の小高い丘を登ると、広大な平地が現れ、かつてそこに城があったことが偲ばれます。

 

長い相馬氏の支配の中でも、280年にわたる拠点となった小高城は、戦乱の世に相馬氏の勢力を象徴する存在でした。しかも、相馬氏に縁を持つ中世の城跡は、南相馬市内に約80カ所も確認されています。相馬氏による領地支配が、いかに着実であったかが伺えます。

 

相馬氏家系図

南相馬市博物館所蔵の相馬氏家系図。相馬氏の系譜を見ることができる

 

小高神社

かつて小高城があった場所に残っている小高神社。南北朝の乱では、小高城は北党の重要な位置を占めた

 

 

相馬氏の2つの系譜、陸奥相馬氏と下総相馬氏

 

相馬家の初代当主は、鎌倉時代初期の武将である千葉常種の次男の師常(もろつね)。そもそも彼が父から相続したのは現在の千葉県松戸市から我孫子市にかけてであり、相馬氏は最初から福島県の浜通り地域にいたわけではありません。当時、松戸市から我孫子市の一帯は、相馬郡相馬御厨(みくり)と呼ばれていました。

 

ではなぜ、相馬氏は福島に? それは、家督争いのお家騒動が発端だったのです。

 

師常の子孫となる4代目胤村(たねむら)の死後、先妻の子である胤氏(たねうじ)と、後を託した後妻の子である師胤(もろたね/5代)は家督を争うことになります。師胤は、父から家督を譲られたことを証明する書状を鎌倉幕府に提出しましたが、幕府はこれを却下。そして継承者として認めたのは先妻の子の胤氏(たねうじ)。このため師胤の子・重胤(しげたね/6代)の代に仕方なく陸奥国行方郡に入り、陸奥相馬氏となったのでした。つまり、奥州での相馬の歴史は戦国の世に地方大名で起こったお家騒動をきっかけに始まったのです。

 

南北朝の時代には、陸奥相馬氏(中村相馬氏)は北朝方に、本家の下総相馬氏(流山相馬氏)は南朝方につきました。天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐では、下総相馬氏は豊臣方とは敵対関係とされ、徐々に衰退の道をたどります。それに対し、奥州相馬氏は大名として残り続けました。

 

鎌倉幕府から本家の継承者と認められなかった師胤(もろたね)の子・重胤(しげたね)が、東北の地で680年に及ぶ支配を遂げたのに対し、本家を継承した胤氏の下総相馬氏が衰退したのは歴史の皮肉ないたずらかもしれません。ちなみに、出処を同じくする下総と東北の両相馬氏が正式に和解したのは、江戸時代の18世紀に入ってからだと言われています。

 

同慶寺に眠る、戦意を感じる義胤の墓石と野馬追の由来

 

相馬義胤公の墓

同慶寺に現存する相馬氏第16代当主相馬義胤公の墓。義胤は名将と謳われ、伊達政宗と戦闘を繰り広げた

 

現在、小高城跡の西には、同慶寺という相馬氏の菩提寺(先祖の墓がある寺)があります。第16代当主義胤(よしたね)から第27代の益胤(ますたね)まで、敷地内には相馬家の多くの墓石が鎮座しているお寺。その中で、義胤(よしたね)の墓の一基だけはなぜか北側を向いているのです。寺を案内してくれた女性は、その理由を次のように説明してくれました。

 

「義胤(よしたね)さんは伊達政宗と戦った名君で、早く亡くなったんです。それもあって伊達政宗の城があった北側に向かって葬られているんですよ」

 

魂となってなお、相馬の地を護ろうとしているのでしょうか。なお、相馬と伊達の抗争は、小高城から中村城への移転、つまり小高城の廃城という出来事をもたらしています。その理由は、伊達氏の攻撃を防ぐ上で小高城は地形的に不利であり、一方、松川湾に面した中村城は海上交通の面で有利だったからだと言われています。

 

それにしても、62万石の伊達氏に対し、わずか6万石の相馬氏が立ち向かうのは相当厳しかったのではないでしょうか。総合的な武力だけでは、到底伊達にはかないません。その分、政治力や知略で対抗するとともに、個々の武士の練度も常に高める努力をしていたのでしょう。その一端を、「相馬野馬追」の神事からうかがうことができます。

 

野馬追は、もともと相馬氏の遠祖といわれる平将門が始めた軍事訓練。野生の馬を放ち、それを敵に見立てて追いかけることで、相馬の武士は常に騎馬の技術を高め続けていました。後に鎌倉幕府はこうした軍事訓練を一切禁止しましたが、奥州相馬氏では神事とされたことで黙認されました。それは1000年を超えた今でも、相馬に暮らす相馬家の末裔と、ここに暮らす民によって護られ、受け継がれています。

 

野馬追イラスト

500余騎もの騎馬武者疾走する勇壮な相馬野馬追。毎年7月末の土曜日・日曜日・月曜日の3日間に行われている

 

相馬家霊堂

相馬家霊堂。明治に至るまでの藩主とその一族137の位牌がここに安置されている。

 

 

歴史ある城下町としての佇まい

 

城下町として長い歴史を持つ南相馬市ですが、明治以降、近代にかけての史跡も多くあります。原ノ町駅から西に向かうメインストリート沿いには文化財級の古い建造物が多く残り、ちょっとレトロな佇まいの街並みが特徴となっています。

 

古墳時代から、戦国時代を含む中世、そして江戸時代から近代と、南相馬市にはそれぞれの時代を今に伝えるたくさんの史跡がありました。特に相馬氏の支配に関わる痕跡を辿るのは大変興味深く、さながら日本史のテーマパークで遊んでいるような気分にさせてくれます。

 

馬

南相馬市では今でも馬を飼育している家が多い。農耕の力として古来より人と共存してきた馬だが、南相馬市の歴史においても人と馬は深く結び付いている

 

野間土手

かつての南相馬市には野馬が多く生息していたため、農作物被害を防ぐために寛文6年(1666)、中村藩3代藩主の相馬忠胤の代に領内の百姓たちを集めて土手を築かせたという。写真は南相馬市博物館の裏手に残されている野間土手の地形

 

 

南相馬市のこと

南相馬市が位置する福島県浜通り地区の北方は、阿武隈高地から東に伸びる丘陵地の中をいくつかの河川が海へ流れ込む、変化に富んだ地形を見せています。そのためここで暮らす人々は、太古より海や川、そして豊かな土壌と強い関わりを持ってきました。市内を流れる新田川では古くからサケ漁が盛んであり、近代においての地場産業として大きな役割を果たし、もっと歴史を遡れば、ここには縄文時代から中世、そして近代にかけての歴史史跡が数多く点在。小高、鹿島、原町といったエリアごとに特色ある地域性を見ることができます。なかでも、千年以上伝わっている神事「相馬野馬追」は、国の重要無形文化財に指定され、この地の豊かな歴史を象徴するものとして、壮大な戦国絵巻の様を今に伝えています。

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