【双葉町】新政府軍の快進撃!芸州神機隊と高間省三の戊辰戦争

2021.01.28
双葉町 #奥羽越列藩同盟#戊辰戦争#明治新政府軍#磐城の戦い#神機隊#高間省三

幕末から明治にかけて日本各地で行われた戊辰戦争。双葉町をはじめ福島県の浜通り地方はその激戦地のひとつです。明治新政府が樹立された後も抵抗し続ける奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)*1を駆逐するため、薩摩藩・長州藩をはじめ西日本各藩の軍勢がこの地に集結していきました。

 

その中にあってひときわ高い士気を持ち、勝利の進撃を続けていたのが芸州広島藩(げいしゅうひろしまはん)*2の「神機隊(しんきたい)」。ここでは神機隊と、その部隊を双葉の町で率い、命をまっとうした江戸時代末期の広島藩士、高間省三(たかま しょうぞう)と双葉町の関わりについてみていくこととしましょう。

 

 

「磐城の戦い」の新政府軍戦死者が眠る双葉町の自性院

 

JR常磐線・双葉駅から歩いて3、4分のところに「自性院(じしょういん)」と呼ばれる真言宗のお寺があります。2011年の東日本大震災によって被害を受け、いまだに本堂は再建できていない状況ですが、「自性院」の名が彫り込まれた立派な黒御影石が存在感を放っています。

 

ここには戊辰戦争時の明治新政府軍と旧幕府軍(奥羽越列藩同盟)の戦い、いわゆる「磐城の戦い(いわきのたたかい)」における西軍(新政府軍)側の戦死者が葬られており、その中に高間省三(たかま・しょうぞう)という広島藩士がいます。

 

高間省三は、磐城の戦いにおいて果敢に戦をしかけ、新政府軍を勝利に導いた立役者のひとり。また、当時、芸州広島藩(げいしゅうひろしまはん)*1は、長州征伐や大政奉還など、実は幕末から明治にかけての大きな出来事にとても重要な役割を果たしていました。歴史の表舞台には登場しない、隠れた英雄、高間省三のことを記憶していただきたいと思います。

 

*1 奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい) 戊辰戦争中に成立した同盟。陸奥国・出羽国および越後国の各藩による反明治維新政府的攻守を目的とした同盟、地方政権(wikipediaより)

 

*2芸州広島藩(げいしゅうひろしまはん) 広島の安芸国一国と、備後国の半分を領有した広島藩の別称。ほかに安芸藩、芸州藩などと呼ばれることもあった。

 

双葉駅

震災を乗り越え、近代的に再建されたJR常磐線・双葉駅。自性院はここからすぐ

 

 

激戦となった磐城の戦い

 

慶応4年(1868)、西郷隆盛と勝海舟の会談によって江戸が無血開城された後、新政府軍は上野戦争で彰義隊を撃破し、南関東から越後や奥州へと軍を進めていきました。板垣退助が率いる薩摩・土佐藩兵を中心とした一軍は、白河口(現在の福島県白河市)へ援軍として向かい、さらに平潟(現在の茨城県北茨城市平潟町)へは、輸送船で薩摩・大村・佐土原藩兵を送り出しました。

 

平潟は、仙台・米沢・会津藩を中心とした「奥羽越列藩同盟」の勢力下。激しい抵抗が予想されましたが、三度にわたる攻防の末、新政府軍は磐城平城(現在の福島県いわき市平にある別名・龍ヶ城)を落とすことに成功。さらに、広野の戦い、浪江の戦いを制して中村(=相馬)藩を降伏させ、奥羽越列藩同盟主力の仙台藩は退却を余儀なくされました。

 

6月16日に平潟に新政府軍の第一軍が上陸してから数々の戦闘を繰り返し、戦闘終結に至ったのは8月7日(旧暦)。この間の一連の攻防が「磐城の戦い」と呼ばれるものです。新政府軍は、現在のいわき市から広野町→楢葉町→富岡町→大熊町→双葉町→浪江町→南相馬市、そして相馬市へと、およそ8週間にわって海岸沿いを北上しながら戦い続け、浜通りを制圧したのでした。

 

 

壮絶な戦いを見せた高間省三率いる「神機隊」

 

さて、遠く広島地から、新政府軍の応援として福島の地を制圧し、活躍した神機隊について、少しご紹介しましょう。

 

神機隊*3は、学問所で学んだ優秀な家臣を核に、訓練を積んだ農兵を集めて組織された隊。規律も厳しく、隊員たちの士気は非常に高かったといいます。その神機隊の中心人物のひとりが高間省三です。

 

省三は広島藩武具奉行の嫡男に生まれました。18歳にして広島藩学問所で助教になるなど、文武ともに大変優れた青年でした。そして20歳のときに神機隊の大砲隊長となります。

 

かつて同じ学問所で教鞭をとり、『日本外史』を著した漢学者の頼山陽(らい・さんよう)。省三をはじめとした広島藩士は、その尊王思想に強く影響を受けていました。理屈の通らない長州征伐を主張する幕府に対して不満を持ち、やがて討幕へと突き進んでいったのです。

 

その一つにあったのが今回の中村(=相馬)藩の降伏と、仙台藩の退却でした。援軍として送り出された先の広野の戦いでは、神機隊は省三が操る大砲をはじめとした最新兵器を駆使して、その数10倍ともいわれる敵兵力に敢然と立ち向かっていきました。

 

そして現在の大熊町、双葉町での激しい攻防戦を経て、浪江町を流れる高瀬川のほとりに到達。奥羽越列藩同盟の相馬藩にとっては、この高瀬川は新政府軍に越えられてはならない重要な一線だったのです。

 

高瀬川の水が赤く染まったと伝えられるほどの激戦が行われた後、対岸の相馬藩領を攻めよと神機隊に進撃の命令が下ります。そして8月1日。省三にとって運命の日がやってきました。

 

高間省三:大砲隊、出撃だ! 敵の砲台を奪取するぞ。

 

省三の声が響き渡ります。敵の築いた堀切や土塁を突破し、さらに進撃してくと、潜伏していた相馬の兵が発砲してきました。省三の耳元をヒュンと銃弾がかすめます。

 

高間省三:敵は旧式の火縄銃だ。弾込めに時間がかかる。ひるむな。進め!

 

神機隊の武器は新式のミニエー銃で連射が可能。応戦すると、敵兵は散り散りに逃げていきます。前線を突破し、省三は相馬藩が陣を張る高瀬川対岸の石垣をよじ登っていきました。そして砲台のひとつに駆け上がり、砲兵を切り倒してついに奪取成功。

 

高間省三:やったぞ、一番乗りはわれら神機隊だ!

 

パーン

 

高間省三:うぅっ…

 

勝ち名乗りを上げた刹那、敵が放った1発の銃弾が省三の体を貫いたのです。

 

新神隊:た、隊長がやられたあーッ

 

驚いた部下たちが集まってきて、朦朧とした意識の省三に必死に呼びかけます。ただちに軍医による助命措置が行われましたが、その甲斐もなく、やがて省三の命の灯は消えてしまったのです。

 

この日の神機隊の攻撃と、省三の砲台奪取を契機として相馬藩は後退し、やがて奥羽越の同盟軍は徐々に崩れていきました。勝てないと判断した相馬藩が新政府側に寝返ったのです。そして6日後の8月7日、戦闘終結。

 

生きてさえいれば、省三は英雄として広島へと凱旋できたことでしょう。藩の誇りを守るために戦い抜いた省三の生き様からは、尊皇攘夷運動にかけた志士たちの熱い思いが伝わってきます。

 

高間省三イラスト

高間省三。奥州に出掛ける前、写真館にてこのような写真を撮った。洋装に髷、刀、そして短銃といういでたちが、幕末から明治という時代性を現している

 

自性院

「自性院」は真言宗豊山派の寺院。震災で本堂を喪失し、閉鎖されている状況だが、お墓まいりに来る地元の人々の姿が見られた

 

「自性院」の墓地

「自性院」の墓地の一角。高間省三の墓がどこにあるのか見つけることができなかった

 

高間省三が眠る双葉町の自性院は、現在閉鎖となってはいるものの、特に立ち入りの制限はありません。ただ、住職や管理者が常駐しておらず、震災後も高間省三の墓が存在しているのか、あるとすればどこにあるのかがわかりません。しかし震災前に自性院を訪れたであろう方のサイトには確かに高間省三の墓の写真が掲載されていたので、きっとここのどこかに墓地があるのでしょう。

 

広島藩の名誉を守るために戦い、福島の地で壮絶な最後を遂げた高間省三。彼もまた、私たちが知っておくべき倒幕の立役者のひとりではないでしょうか。

 

*3神機隊 幕府による第二次長州征伐(慶応3年/1867)時に広島領民が大きな被害を受けたことをきっかけに、自らの藩を守るために創設された隊。

 

参考図書:『広島藩の志士 二十歳の英雄 高間省三物語』 穂高健一著(南々社・発行)*薩長芸の同盟、その裏にあった対立、そして高間省三の活躍について書かれています。

 

「新山城跡」看板

 

新山城跡

新山城跡。かつてこの地を統治していた標葉氏の居城だった。双葉町駅から南に歩いて2、3分のところにある

 

 

双葉町のこと

双葉町は福島県・浜通りの中ほどに位置し、阿武隈高地と太平洋に挟まれた面積約52キロ平方メートルの小さな町。平安時代末期からは標葉氏が統治し、応仁の乱の後に標葉氏は相馬氏に滅ぼされ、以後明治に至るまで相馬氏の統治が続きました。

2011年の東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故により、役場機能を埼玉県加須市へ移転。2013年には福島県いわき市へ再移転しました。町内は帰還困難区域と避難指示解除準備区域に指定され、現在(2021年)に至るも町民の多くは全国に避難中です。

 

ふかしま。
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ふかしま。編集部
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