【大熊町】小兵浜と小兵ヶ浜 2つの地名を生んだ国取り合戦

2021.01.28
大熊町 #富岡町#小兵ヶ浜#小兵浜#戦国時代#木戸金剛川の合戦

大熊町には小良浜(おらはま)という地名があり、隣の富岡町には小良ヶ浜(おらがはま)と呼ばれる地名があります。初めて聞くと「同じ場所かな」とつい間違えてしまいそうですが、この似たような2つの地名が生まれたのは、戦国時代の領土の取り合いが元になっているというのです。大熊町に伝わる、そんな歴史上のエピソードを紹介しましょう。

 

戦国時代に群雄割拠した浜通り

 

戦国時代の東北地方。福島県の浜通りや中通り、現在のいわき市から仙台にかけては、主に伊達氏、田村氏、佐竹氏、蘆名(あしな)氏、相馬氏、岩城氏といった戦国大名の各勢力が入り乱れ、それぞれが領土争いの小競り合いを繰り返していました。

 

その中のひとつに、「木戸金剛川の合戦」と呼ばれる戦があります。伊達・蘆名・相馬連合軍と、岩城・結城連合軍との衝突で、この戦は戦国時代の初期の天文3年(1534)、現在の大熊町から富岡町、楢葉町周辺の地域で勃発しました。その原因はどうも婚姻のトラブルだったらしく、また「小良浜」と「小良ヶ浜」の地名の由来にこの戦が関わっているというのです。

 

江戸時代に編纂された相馬氏の史書『奥相茶話記』によれば、相馬氏の当主だった顕胤(あきたね)は、同じく伊達氏の当主・稙宗(たねむね)に依頼されたことから、稙宗嫡男の晴宗(独眼竜伊達政宗の祖父)と岩城重隆の娘との婚姻を取りまとめました。岩城重隆の娘は久保姫といい、奥州随一と謳われたほど、それは美しい女性だったといいます。

 

ところが重隆は、久保姫を同じ戦国大名の白河結城家に嫁がせようとし、伊達晴宗との婚約が破談に。岩城氏と結城氏のつながりを強固にし、伊達氏の後ろ盾となっている相馬・田村氏に対抗しようと考えたのです。

 

もちろん相馬顕胤(あきたね)はカンカン。すぐに軍勢を率いて岩城領に攻め込んでいきました。これが「木戸金剛川の合戦」*1です。

 

合戦は相馬側が勝利し、久保姫は元どおり伊達晴宗に輿入れすることになりました。また、戦によって岩城氏は自らの領土を奪われ、このときは現在の富岡町までが相馬氏のものになったといいます。

 

*1木戸川は楢葉町中心部を流れている川ですが、金剛川については「金剛川原」という地名が残っているのみ。そのため、戦闘が行われたのは、その近辺だったことが伺えます。

 

天神山スポーツ公園

かつて天神山城があったとされる天神山スポーツ公園。木戸川の河口にあり、もともとこの地は岩城氏の一族である楢葉氏の領土だった

 

 

壮大な親子喧嘩の巻き添えで相馬は弱体化?

 

当時、相馬氏と伊達氏の関係は悪くはなかったようです。しかしその後、今度は伊達家内で先の久保姫を娶った伊達晴宗と、その父親の稙宗(たねむね)との間の壮大な親子喧嘩が始まりました。

 

外交的な能力は高いものの、内部的には租税を重くするといった父、稙宗(たねむね)のやり方に不満を持っていた晴宗が、天文11年(1542年)に三男の時宗丸(後の伊達実元)と上杉定実との養子縁組を画策した稙宗(たねむね)の政策を破談にしたことで勃発した「天文の乱」です。

 

この伊達家内紛は伊達家内のみならず、やがて東北中の大名を巻き込む大騒ぎに発展! 天文17年(1548)まで、なんと6年間も続けられたのでした。

 

最初のうちは稙宗(たねむね)サイドが優勢でしたが、若い晴宗には将来への期待を持つ家臣団が加担し、戦いの趨勢は徐々に晴宗サイドが有利に転がり始めます。最終的に勝ったのは晴宗。伊達家の実権はすべて晴宗が握ることになったのでした。

 

伊達親子の争いは、ここで集結しましたが、この戦いの影響を受けたのが周辺の大名たちです。相馬氏は稙宗(たねむね)側についていたため、晴宗との関係が悪化、また長引く戦による疲弊もあって、天文の乱が集結した翌年に命を落とします。その隙を狙っていたのが岩城氏。

 

かつて相馬氏に領地を奪われていた岩城氏は、まさにこれを好機ととらえます。木戸金剛川の合戦から36年後の元亀元年(1570)、軍勢を送り出して日向館と呼ばれる相馬氏の要衝を襲撃。富岡の領地を奪還し、見事報復を果たしたのでした。その後は大熊町と富岡町の境目が相馬と岩城の国境と定められます。熾烈な争いが続く戦国の世は、このように領地が行き来することも少なくはありませんでした。

 

相馬氏の要衝・日向館があったとされる場所

相馬氏の要衝・日向館があったとされる場所。ただ荒れ果てたままで、当時を偲ばせる痕跡はなにも残っていない

 

 

漁民たちの主張がそのまま地名に

 

さて、こうして領地は行ったり来たりしたわけですが、それがこの地に住む領民にどんな影響を及ぼしたのでしょうか? 領民はそれぞれの大名の家来ではないので、住む場所が変わるわけではありません。でも、「オラたちの殿様はやっぱり相馬様じゃ」と言う領民もいれば、「いやいや、ワシらの殿様はもともと岩城様じゃった」と主張する領民もいたようです。

 

どっちの殿様にシンパシーを感じるかの領民どうしの言い争いが、やがて浜辺で漁師たちの縄張り争いに発展。そのとき、大熊(相馬)側の漁師は、「ここはオラの浜だ、お前たちは出ていけ」と言い、富岡(岩城)側の漁師は、「ここはオラが浜だ、お前たちこそ出ていけ」と言ったとか言わなかったとか。

 

その結果、大熊には「小良浜」、富岡には「小良ヶ浜」という地名が生まれたというのです。これが木戸金剛川の合戦にまつわる地名の物語。真実は時の彼方ですが、なんとなく心が和む話です。

 

小良浜イラスト

「オラの浜だ」「オラが浜だ」と言い争っていたとはいえ、本当のところ漁民にとって相馬と岩城のどちらが領主であっても関係ないのでは…

 

道路標識1

 

道路標識2

大熊町と富岡町にそれぞれ「小良浜」と「小良ヶ浜」の地名が残っているが、2021年1月現在、原発事故の影響で立ち入ることができない

 

 

大熊町のこと

この地はかつて苦麻(くま)の村と呼ばれ、南北の勢力がせめぎ合う境界地帯でした。周辺の町村と同様に、鎌倉時代から戦国時代までは標葉氏が支配し、その後は明治に至るまで相馬氏の中村藩領となります。大熊町の自治体そのものは、昭和29年(1954)に大野村と熊町村が合併して発足。東京電力福島第一原子力発電所の1~4号機を有しているため、その事故の発生地として知られることになります。しかし本来の大熊町は、森林保養基地として色とりどりの花々が楽しめる三ツ森山や、雄大な海の景色の馬の背岬など素晴らしい自然景観に恵まれた地。残念ながら、現在は原発事故の影響で未だ閉鎖中となっています。

 

ふかしま。
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ふかしま。編集部
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