【富岡町】フクシマ原発事故の真実  あのとき、そしてこれから

2021.01.28
富岡町 #2011年3月11日#原発事故#吉田昌郎#東京電力#東日本大震災#福島第一原子力発電所

2011年3月11日に宮城県沖合で発生した巨大な地震は、東北地方の太平洋岸沿いを中心に東日本に甚大な被害を及ぼし、国内のみならず世界中に大きな衝撃を与えました。その規模はマグニチュード9.0、最大震度7とされ、日本国内では過去最大。しかも、地震や津波による直接的な打撃に加え、原子力発電所の事故が福島県浜通り地方の被害にさらに追い打ちをかけました。現在、その原発の原子炉廃炉に向けての取り組みが行われていますが、改めて原発事故がどのようにして起きたのか、経緯を追いかけていきます。

 

東北大震災から10年。進む復興と、山積する廃炉の問題

 

2011年の3月11日に起きた東日本大震災。その記憶はまだまだ新しく、あの時のことが昨日のことのように思い起こされます。津波で車や家屋が流されていく姿や、福島第一原子力発電所の建屋が水素爆発を起こす様子はTV映像で放映されました。あの恐怖は、今なお多くの人々の記憶の底に刻まれているのではないでしょうか。

 

震災から約10年。一部を除き避難指示は解除されました。被災地域のインフラは徐々に復興が進み、町は新しく生まれ変わろうとしています。避難住民も帰還し始めて活気が戻りつつありますが、事故を起こした原発の原子炉を今後どのように解体し、撤去するかという大きな問題がまだ残されています。

 

では、その廃炉に向けてどのような取り組みが行われているのでしょうか。改めて原発事故に至る経緯を振り返りながら、現在についてみていきましょう。

 

東京電力廃炉資料館

富岡町内にある東京電力廃炉資料館。廃炉のためのさまざまな情報が展示されている

 

 

原子炉は自動停止。地震の影響はなかったのだが…

 

福島第一原子力発電所は、双葉郡大熊町の海岸沿いに建設されています。

 

 

2011年3月11日午後2時46分。宮城県牡鹿半島沖130km、深さ24kmを震源とする地震が発生。

 

ゴゴゴゴという不気味な音ともに、大きな揺れが発電所を襲いました。揺れの酷さは人が立っていられないほど。当時福島第一原発の責任者だった吉田昌郎所長(故人)は、揺れている間中、所長室の机の端をつかんで踏ん張ったまま身動きできなかったと述懐しています。

 

揺れは数分間にわたって激しく続き、原子炉をコントロールする中央制御室内はほとんどパニックに近い状況でした。

 

原発職員:身の安全を確保しろ!スクラム(緊急停止)するぞ!

 

職員は大声で叫びますが、各種の警報音が鳴り響く中で、その声はかき消されてしまいます。

 

福島第一原発には6基の原子炉がありますが、このとき4、5、6号機は定期点検のため停止中。運転していたのは1、2、3号機で、その3つの原子炉はこの揺れで緊急停止しました。原子炉は異常事態が生じた際、自動的に停止する仕組みになっているのです。

 

同時に、地震によって外部からの電源が失われ、停電となりました。しかし直後に緊急用のディーゼル発電機が起動し、冷却ポンプを動かし始めます。原子炉は停止しても燃料が発熱し続けるので、冷却しなければならないからです。

 

やがて揺れは収まり、全職員が無事かどうかの確認が行われました。班ごとに点呼が始まり、ここまで原発はさしたる事故もなく大きな問題は起きていませんでした。

 

中央制御室

原発の中央制御室の日常の様子(廃炉資料館より)。各種の計器やディスプレイで原発の稼働状況をチェックし続けている

 

 

2011.03.11 巨大津波が原発の安全機能をすべて奪う

 

「津波警報発令! ただちに避難せよ!」

 

それからほどなく、気象庁から大津波が来るという警報が発せられ、屋外にいる職員に対して施設内各所から避難命令の放送が行われました。

 

福島第一原発の原子炉建屋をはじめとする重要施設は、海面から10mの高さに設置されています。通常、10mもの高さに達する津波など想像を絶しますが、そんな人の常識など通用しないのが自然災害の怖いところ。10mという高さが過信を生んでいたかもしれません。

 

地震発生から約45分が経過した15時30分頃、沖合から猛り狂ったような濁流が迫ってきました。海面の高さは10mをはるかに超え、津波は原子炉建屋、タービン建屋、サービス建屋など、各種の施設に激しく襲い掛かります。

 

予備電源であるディーゼル発電機の建屋は海水をかぶって水没し、まず15時37分に1号機の全交流電源が喪失して冷却システムが停止。その1分後に3、4号機の全交流電源喪失。3分後に2号機の全交流電源喪失。そして15時42分、非常用ディーゼル発電機が完全に使用不能となりました。

 

これにより、原子炉はまったく冷却できなくなってしまったのです。これが後の原発事故のすべての発端となりました。

 

原発と津波イラスト

原発に津波が押し寄せてきたときの様子。原子炉は右側やや高い位置のブルーの建物の中

 

 

2011.03.12 水素が充満し、原子炉建屋が爆発

 

自動停止した原子炉内では、核反応が止まっています。とはいえ、燃料棒の発熱が完全に止まるわけではありません。そこで水による冷却が必要になるのです。ところが電源喪失でその冷却系統に障害が起きたため、燃料棒の発熱がどんどん進行していきました。

 

通常、燃料棒は原子炉内で水に覆われています。しかし運転を停止して冷却ができなくなった1、2、3号機の炉内では熱で水が蒸発し、燃料棒がむき出しになって千数百℃の高温にまで達してしまいました。

 

また、燃料棒は、ジルコニウムという合金の筒の中に、直径1cm高さ1cmほどの円柱形に焼き固めたウランを350個ほど詰めたものですが、ジルコニウムは高温になると水蒸気と反応し、水素を発生する性質を持っています。

 

こうして発生した水素が原子炉建屋内に充満。地震発生翌日の3月12日15時36分、1号機に最初の水素爆発が起こりました。

 

続いて14日11時01分に3号機が爆発。15日午前6時14分には点検のために運転を停止し、燃料棒が抜き取られていたはずの4号機でも水素爆発が発生します。4号機が爆発した理由は、3号機の水素を含むベントガスが、排気管を通して4号機の建屋に流れ込んだからではないかと考えられています。

 

原子炉の格納容器は、危険な放射線が外に漏れ出さないよう幾重ものシェルで覆われていますが、原子炉建屋そのものも、最終的な遮蔽壁として厚さ1mに及ぶ鉄筋コンクリートの壁で囲われています。その原子炉建屋の上部が水素爆発によって吹き飛び、内部が露出されてしまったのです。

 

それにより、周辺住民が被ばくする恐れが出てきました。そこで、避難指示が出されます。以下、原発事故による避難指示の推移を時系列で見てみましょう。

 

 

3月11日19:03……原子力緊急事態宣言発令

3月11日20:50……半径2km圏内からの避難指示

3月11日21:23……半径3km圏内からの避難、3~10km圏内の屋内退避指示

3月12日05:44……半径10km圏内からの避難指示

3月12日18:25……半径20km圏内からの避難指示

3月15日11:00……半径20~30km圏内の屋内退避指示

 

こうして原発周辺の町や地域は、長い間無人となってしまいました。

 

廃炉資料館の時計

廃炉に携わる人々と作業の様子。多くの人が従事している(廃炉資料館より)

 

仮置き場

放射能汚染の危険がある土壌は袋に詰められ保管されている。富岡町やその周辺にはこのようなスペースがあちこちに

 

 

2021.01〜 廃炉への道のり 今も進み続ける技術進展への期待

 

住民が避難している間にも、放射能被ばくの危険に晒さらさせれている過酷な状況の中、原子炉の冷温停止を目指して必死の作業は続きます。

 

なにしろ、炉内の様子がわかりません。危険なので見に行くことができないのです。炉心溶融(メルトダウン)の懸念もあり、とにかく冷却系統の復旧が急がれました。また、ヘリコプターによる上空からの水の散布、消防車からの放水など、さまざまな策が講じられます。そこには東電の作業員はもちろんのこと、日本の原子力事業に関わるさまざまな企業の職員、消防署員、自衛隊、米軍など、多くの人々や団体が携わっていました。

 

2011年12月の時点で、政府は原子炉の冷温停止を宣言します。それでも原子炉内には大量の放射性物質が残され、危険であることには変わりませんでした。

 

後に、炉心は結局メルトダウンを起こしていたことが判明しました。溶け出した炉心燃料が炉内の構造物と一緒に固まった、「燃料デブリ」と呼ばれるものが、ロボットなどによる撮影で多く見つかったのです。この燃料デブリこそが廃炉を妨げる放射線源。できるだけ早く取り除く必要があり、そのための工程づくりと研究が始まりました。

 

また、燃料デブリを冷やすための水も放射能汚染されてしまいます。セシウムやストロンチウムなど危険物質が含まれているため、そのまま流して捨てることができません。そこで各種の浄化処理を行い、処理水としてタンクに保管することになりました。しかし、今やタンクに保管できる容量も上限に達しつつあります。処理水は一応安全といわれていますが、今後どうすべきかの対策も急務です。

 

原発事故は、私たちに多くの教訓を残しました。実際に廃炉が完了するには数十年かかるといわれ、そうだとすればまだまだ長い道のりです。ただ、そのための研究は徐々に実を結びつつあるといいます。

 

原発事故は、これまで日本が経験したことのない大きな危機でした。しかし、きっといつかは完全な廃炉が実現し、安心して住める浜通りの町々が復活するのでしょう。それを願わずにはいられません。廃炉への、今後のさらなる技術進展に期待したいところです。

 

福島県富岡町にある「電子力災害伝承館」では、事故の様子や状況、対応などについてを時系列で紹介した展示や原子力災害の影響、県民の思いなどが紹介されています。日本の歴史上にも残る災害の真実。1日かけて訪れることをおすすめします。

 

作業ロボット

炉内の危険な作業はロボットが主役。さまざまな機能を備えたものが開発されている(廃炉資料館より)

 

防護服

廃炉作業に従事する人の防護服。被ばくの危険から身を守る(廃炉資料館より)

 

東日本大震災・減力差以外伝承館看板

 

原子力災害伝承館内部

双葉町に建設された原子力災害伝承館。震災から原発事故に至る経緯、そして現在までの状況を知ることができる

 

 

富岡町のこと

富岡町は浜通り地方のほぼ中央に位置しています。一帯には古墳や遺跡などが点在し、この地に古くから人々が定住していたことがうかがわれます。富岡と呼ばれるようになったのは戦国時代の頃から。当時富岡は主に岩城氏の領地でしたが、幾度かの争いによって相馬氏が領有していた時期もありました。町内には福島第二原子力発電所があり、平成23年(2011)3月11日の東日本大震災による第一原発の事故によって全町民に避難指示が出されました。一部地域を除いてそれが解除されたのは、事故から6年も経った平成29年(2018)4月1日。現在は徐々に帰還者も増えつつあり、復興に向けてさまざまな活動が行われています。

 

ふかしま。
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ふかしま。編集部
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