【川俣町】戦に翻弄された悲恋の未亡人、縣田御前(かけたごぜん)

2021.01.28
川俣町 #中島伊勢守#伊達政宗#伊達稙宗#懸田俊宗#懸田御前

機織神社で祀られる「小手姫」はシルク伝来の祖ともいわれ、川俣町のゆるキャラとして知られていますが、川俣町にはもうひとり、川俣を舞台に悲劇の一生と遂げた姫様がいることをご存知でしょうか? 極上の美人で、その家柄はみなさんよくご存知の「あの一族」。今回はもうひとりの悲劇のヒロイン「懸田御前」の物語をご紹介しましょう。

 

 

有力大名、縣田俊宗に嫁いだ伊達のお姫様

 

ここで改めて。みなさんは伊達稙宗(だて・たねむね)という武将をご存知でしょうか。この方は、あの独眼竜伊達政宗の曾祖父にあたる方。その稙宗の娘として生まれたのが懸田御前(かけだごぜん/1519~1583)。今回の悲劇の主人公となる人物です。

 

稙宗の娘として生まれた懸田御前は、たいそう美人の姫でしたが、当時、女性は政(まつりごと)の道具。この姫もまた、政略結婚により懸田城(霊山町)主の懸田俊宗に嫁ぐことになります。

 

天文年間(1532~1555)初期においては、懸田氏は有力な大名のひとり。けれども義兄となった伊達晴宗(政宗の祖父)と対立したことが、御前の悲劇の引き金を引くことになります。伊達稙宗と晴宗の親子の争い(天文の乱)の渦中に置かれてしまったのです。

 

懸田御前:お兄様と父上の喧嘩が大きな争いに。私たちはどうなってしまうのでしょうう? なんとかこの争いに巻き込まることなく無事におさまってくれるとよいのだけれど…。

 

懸田御前は一人心を痛めますが、平穏に終わることを願う思いも虚しく、この争いは後に天文の乱という6年にもわたる争いごとに発展してしまいます。

 

6年という月日を費やした後、ようやく争いを終結させるための和議がまとまります。しかしながら、その条件の中には、西山城、縣田城の廃城。この知らせに、御前はもちろんのこと、城主の懸田俊宗はたいそうお怒りになりました。

 

懸田俊宗:我が城を廃城せよとは何事か。主として、命に変えても懸田城は守り抜かなねばならん。御前よ。お前には苦労をかけるが、義兄と戦うことを赦してくれるか。

 

懸田御前:私の心は聞かずともおわかりのはず。兄との戦と言われれば、当然心は痛みまするが、私はすでに殿の妻でございます。当然、懸田の人間としてその命、全うするのが道理でございましょう。

 

懸田俊宗:世話をかける。できれば避けたい戦。だが城を捨てよと言われて、そのままおめおめと城を明け渡し、一族を滅ぼされるわけにはいかん。どうか堪えてくれ。

 

懸田御前:私は殿の命に従うまで。どうかこの城を、一族をお守りくださいませ。

 

懸田俊宗:この命に賭けても必ずこの城は守り通す!

 

自分の城を廃城させられることに到底納得できない懸田俊宗は、天文22年(1553)年、晴宗に背いて稙宗派として挙兵することを決め、戦場に向かいます。

 

懸田御前:どうかご武運を!ご無事でお戻りくださいませ。

 

 

主君を裏切った中島伊勢守の横恋慕

 

天文の乱での稙宗と晴宗の戦いは、晴宗の勝利で幕を閉じました。稙宗側の中心的存在として戦を率いていた懸田俊宗は、城を破却され、所領を没収されるという措置に納得がいかず、反抗を続けます。

 

懸田俊宗:領地を召し上げるだけでなく、城を破却せよとはどうにも納得がいかぬ。この上は身を挺して最後まで戦い抜くしか道はない。我が一族をこんなところで絶やすわけにはいかぬのだ。

 

しかし、ここで俊宗は晴宗の大きな策略の前に力尽きてしまいます。なんと懸田の家臣たちに土地を保証すること、新たに土地を与えることを条件に、晴宗側につくよう促したのです。何人かの家臣が晴宗側に寝返ったために、懸田勢は圧倒的に不利となり、俊宗は月舘・川俣へと追い詰められていってしまいます。

 

懸田俊宗:晴宗の策略に負けるとは無念極まりなし。せめてお前だけは生き延びてくれ。

 

懸田御前:殿、私も殿とともに自害いたします。最後まで添い遂げさせてください。

 

懸田俊宗:それはならぬ。お前だけでも生き延び、梅松丸と懸田を継いで欲しいのだ。

 

懸田御前:殿…。

 

俊宗の願いも虚しく、家臣はもとより俊宗と息子の義宗は斬り殺されてしまいますが、懸田御前は稙宗の娘、晴宗の妹でもあることから、ひとり存命を許されます。

 

懸田御前:ああ、愛する殿を失い、私はこれからどうして生きていったらよいのか…。

 

涙にくれる懸田御前の心情を思うと、戦国の世に生きる女性の哀しみが伝わってくるようです。後に、御前は晴宗家臣の中島伊勢守義康にしつこく求婚を迫られます。この中島伊勢守という人物、実は懸田俊宗の家臣でした。晴宗側に寝返り、しかもかつての主君の妻に横恋慕していたため、未亡人になった御前をここぞとばかりに妻にしようとしたのです。

 

懸田御前:敵に寝返ったお前が、よくも私の前に顔を出せたものじゃな。なに用じゃ。

 

中島伊勢守:懸田家に仕えし頃から、密かに思いを寄せておりました。俊宗殿のあとはこの私が姫をお守りいたしますゆえ、どうか私の妻になってはくれまいか?

 

懸田御前:誰がお前のような裏切り者の妻になどなるものか! 殿を裏切った上に、そのような戯言を口にするなど恥ずかしいとは思わぬか。受け入れることなどできるわけがなかろう。断じて嫌じゃ!

 

あまりにもしつこく言い寄られた御前は、ほとほと嫌になり、ついには中島伊勢守のもとから逃れて、川俣町小島まで落ち延びていきます。

 

もちろん、中島伊勢守は激怒。御前には梅松丸という子供がいましたが、その梅松丸は御前が逃げたときに捕らえられ、東根川の河原で切り殺されてしまいました。

 

懸田御前:あぁ、愛しい我が子。お前を救えなかった母を許しておくれ…。殿の唯一の形見と希望であるお前を死なせてしまうとは…。殿になんと申し開きをすればよいものか。

 

そのとき、梅松丸はまだ15歳。御前の悲しみは測り知れないものだったでしょう。御前は梅松丸の死を悼み、その魂を供養するために、天正4年(1576)、この地に「梅松院」という寺を建立したと伝えられています。

 

梅松院

縣田御前が梅松公を供養するために建立したとされる梅松院。もともとは経塚山一番地にあったが、明治19年(1886)に現在の地に移った

 

大名の姫君という身分であったことから、戦国時代の荒波に翻弄されてしまった懸田御前。実は、その後の話には諸説があり、御前は中島伊勢守に捕らえられて生きたまま沼に沈められたとか、仙台に落ち延びて生き続けたとか、さまざまな話が伝えられています。

 

舘ノ山

河俣城があったとされる舘ノ山は川俣中央公園の丘から望むことができる

 

御前がこの世を去ってしばらくした後、伊達政宗の命を受けた桜田資親が町の南方の山に城を築き、これが河俣城の起源となっています。山稜上に南北1kmにわたって雄大に展開する城だったとか。現在、河俣城があったとされる舘ノ山は川俣中央公園の丘から望むことができます(城はなく、山が確認できるのみですが)。

 

川俣の歴史に残る、知られざる悲劇の物語。福島路の旅先スポットのひとつに、梅松院を加えてみてはいかがでしょう? 桜や紅葉で知られる機織神社や大円寺のような華やかさはありませんが、ひっそりとした佇まいの奥に祀られた阿弥陀如来像の姿に、戦国の世に翻弄されてその生涯を閉じた美しき姫、懸田御前が我が子を思う深い情愛を感じることができるでしょう。

 

川俣町景観

川俣町内には、明治~大正時代の面影を残す景観が多く残されている

 

 

川俣町のこと

盆地を中心に絹織物の町として発展してきた川俣町。中世には「小手保」といわれ、奈良興福寺の荘園として繁栄しました。室町時代初頭は川俣氏が支配し、16世紀頃からは伊達氏の支配に替わり、以後は伊達氏の将である桜田氏、蒲生氏郷、上杉景勝と、この地は領主がどんどん替わっていきます。寛文4年(1664)からは徳川幕府の直轄地となり、元禄16年(1703)に川俣代官所が創設されて明治維新に至ります。

また、慶長年間(1596~1615)より、このあたりは生糸や絹織物取引の市が立っていました。徳川の時代になると、江戸城御用の川俣絹を生産するなど国内で有数の絹織物産地に発展。明治・大正・昭和の時代には、輸出用として花形商品の羽二重を織り出しました。昭和30年(1955)3月の町村合併促進法により、近隣の1町7カ村が合併し、現在の川俣町となっています。

ふかしま。
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ふかしま。編集部
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