【川内村】幕末戦乱、愛娘を失った悲しみの老中、安藤信正

2021.01.28
川内村 #井伊直弼#和宮親子#奥羽越列藩同盟#安藤信正#磐城平藩

川内村村役場の近く、県道36号線脇の林の中に、おかっぱ頭の女の子の顔が刻まれた、こけし人形のような可愛らしい石像があります。これは、幕末の老中で、磐城平藩藩主でもあった安藤信正の遺児のお墓。墓碑には「平安藤源一滴善童女」と刻まれています。

東北の川内村、しかもこのような寂しい場所に、なぜ江戸幕府老中の子供のお墓があるのでしょうか? そこには戊辰戦争に巻き込まれた幼子の、悲しい物語がありました。

 

「平安藤源一滴善童の墓」の道標

川内村役場からおよそ徒歩8分、県道36号線のすぐ脇に立つ「平安藤源一滴善童の墓」の道標。童女の墓は横にある小径を上がった林の中にある

 

岩の上に立つ墓碑

苔生した岩の上に立つ墓碑。そばには石灯籠が立っている。墓碑には慶応4年7月16日に羽貫立で亡くなったと記されている

 

 

皇女和宮降嫁(こうじょかずのみやこうか)を実現させた老中、安藤信正

 

幕末の老中といえば、すぐに思い浮かぶのが大老・井伊直弼。安政の大獄、そして桜田門外で暗殺された話は有名ですが、安藤信正という人をご存知でしょうか。安藤信正は井伊直弼亡き後の幕府を支えた重要人物の一人です。

 

安藤信正(以下信正と表記)は福島県浜通り南部の磐城平藩5代藩主。大老・井伊直弼の下での若年寄を経て、安政7年(1860)に老中となりましたが、その直後に「桜田門外の変」によって井伊直弼が殺されてしまいました。信正は事件の混乱を収拾するとともに、井伊直弼亡き後の老中主座として活躍していきます。

 

信正は、井伊直弼による強硬な政策で悪化していた朝廷と幕府の関係を修復するため、それぞれが協力体制を敷く「公武合体」と呼ばれる政策を推し進めていきましたが、徳川家茂と、孝明天皇の異母妹であった「和宮親子(かずのみやちかこ)内親王」と結婚をしたことにより、和宮降嫁(かずのみやこうか)に反対する過激攘夷派から襲撃を受けます。(坂下門外の変)

 

信正は井伊直弼のように殺されることはありませんでしたが、背中を切られたことにより幕府の威光を失墜させたとして隠居謹慎処分となってしまったのでした。

 

 

奥羽越列藩同盟に加入して新政府軍と戦った磐城平藩

 

川内村俯瞰

川内村のちょうど真ん中あたり、標高600mの五社山山頂から望む川内村の中心部。四方が山に囲まれているのがよくわかる

 

五社山山頂直下の八幡神社

五社山山頂直下の八幡神社。現在建物はないが、かつてはここに社殿があった。八幡太郎こと源義家がここにやってきて、馬の蹄を残したとの伝説が残る

 

さて、慶応4年(明治元年/1868)は激動の年。前年の大政奉還、王政復古による明治新政府樹立の流れから、1月に鳥羽・伏見の戦いが勃発。その後約1年4カ月に及ぶ戊辰戦争が始まります。

 

激しく政局が揺れ動くなか、信正のいた磐城平藩は、反新政府の意思を持って結ばれた奥羽越列藩同盟に加盟していましたが、すでに勢いは完全に新政府側。北上進軍する新政府軍によって奥羽越列藩同盟軍は各所で撃破され、信正のいた磐城平城下も危うくなってきました。激しい戦闘のなか、重臣たちは信正に退去を進言しました。

 

信正が目指したのは相馬領。現在のいわき市川前町下桶売を経由し、川内村に向かうルートです。海沿いの街道を進んだほうが移動は楽ですが、新政府軍に見つかる危険が高くなるため、山深い川内村を経由するルートを選んだのでした。しかし、それが童女の悲劇を生むことになってしまったのです。

 

 

悲劇を生んだ、雨中の逃避行

 

県道36号線

安藤信正の3歳の娘が亡くなった羽貫立(銭耳上)付近の様子。県道36号線の右側が現在の銭耳上地区

 

信正は城から落ち延びるとき、3歳の幼い娘を伴っていました。信正の子は2男2女が知られていますが、この幼子は公式な記録にはなく、名前も不明。この娘は信正が46歳の頃の子供だと思われ、孫ほども年が離れていることから、可愛くて仕方がなかったことでしょう。そんな幼子を連れての山道の逃避行は、非常に過酷なものでした。

 

いわき市川前町に、逃避行中の安藤信正が詠んだとされる歌碑が立っています。

 

――志ばしとて 雨宿りせむかひぞなく

 

こころもぬるる山毛欅(ブナ)の下かげ――

 

童女の最後は詳しく伝えられていませんが、この歌碑から読み解いてみると、こんな様子だったことが。

 

川内村内の羽貫立(はぬきたち)の森の中。まだ陽の高い時間ではあるけれど、周辺は薄暗く、しとしとと雨粒がしたたり落ちています。樹齢が200年を越えると思われるブナの大樹の苔むした根と根の間で、童女は供の者に抱きかかえられながら、弱々しく小さな肩を震わせながら荒い呼吸をしていました。

 

川内村に向かう途中で雨に打たれ、体温を奪われて風邪をこじらせてしまったのでしょう。童女は高い熱に悩まされていました。深い山奥では十分な治療もできず、もともと逃避行で体力が落ちていた身体から、高熱はさらに体力を奪っていきました。

 

童女:おとう…さ、ま…

 

消え入るほどの小さな声が信正の耳に届きました。

 

安藤信正:しっかりせよ。じきに暖かなところに着くぞ。しっかりせよ…。

 

信正が小さな手をギュッと握って必死に励ましますが、童女は目を開けることすらできないほど弱り切っていました。やがて、身体の震えが徐々に小さくなり、かすかな息も絶え絶えになり、動かなくなりました。

 

信正は童女の名を二度三度叫ぶと、がくりと肩を落とし、その場で膝から崩れ落ちました。薄暗い森に夜の気配が忍び寄り、深い静寂が訪れようとしているなか、ブナの葉から落ちてきた雨粒が信正の笠を打つ音だけが森の中に響いていました。

 

 

愛娘を失った信正。危険を顧みず川内村に4日間の傷心滞在

 

長福寺

幼い娘が亡くなり、悲しみに打ちひしがれた安藤信正が4日間滞在した長福寺。境内には草野心平が命名したとされる月輪観音が立っている

 

毛戸ダム

長福寺を出発した信正の逃走ルートと伝えられている毛戸地区。奥深い山中にあり逃避行が困難を極めたことが伺い知れる。写真は現在の毛戸地区にある毛戸ダム

 

童女の死後、信正は、近くの長福寺に4日間滞在。新政府軍から追われる身であり、一刻も早く進まなければならないところでしたが、愛娘を失ったショックが大きかったのでしょう。4日間も川村町に滞在します。信正は滞在中に、村人に娘のお墓をつくることを願い出、その礼として刀を一振り残しています。

 

4日後に長福寺を出発した信正は、毛戸を通って相馬に落ち延びたと記録に残っています。そしてさらに北上し、伊達藩(仙台藩)の居城のある仙台まで逃げ果たすことができたのでした。

 

一方、新政府軍は海岸線沿いに北上し、8月11日に仙台藩の駒ケ嶺を占拠して藩内に侵攻。9月10日に仙台藩は降伏し、ここでついに信正も降伏することとなります。

 

その後、信正は磐城平に戻って謹慎に。処分は永蟄居でしたが、翌年にはそれが解かれ、2年後の明治4年(1871)10月8日に死去。52年の波乱の生涯を閉じたのでした。

 

安藤信正イラスト

江戸幕府老中主座の時代の安藤信正。井伊直弼亡き後、政局安定のために奔走した

 

「安藤公遺児の墓」は、150年以上経った今でも、ひっそりと林の中に立っています。平時であればお姫様としてなんの不自由もなく過ごしていたはずなのに、戦争に巻き込まれてしまったがゆえに、わずか3年の短い生涯を閉じた童女。戊辰戦争の悲劇を、ひとつの石塔が今も伝えています。

 

天山文庫

安藤公遺児の墓から徒歩4分のところにある「天山文庫」。川内村と親交のあった詩人・草野心平が寄贈した、蔵書3,000冊が収められている。茅葺き屋根が特徴で、手前の「十三夜の池」は草野心平が命名

 

 

川内村のこと

川内村は、福島県双葉郡の中西部に位置し、南北に阿武隈山地が連なっています。この地域は石器時代から人が住んでいたようですが、川内村が歴史に登場するのは鎌倉時代近辺から。源頼朝が奥州平泉の藤原氏を討ち、戦国時代には岩城氏の所領となり、江戸時代になると幕府直轄地となって領主が変遷していきました。村の平均標高は約456mと比較的高め。耕地はわずか5%と少ないこともあり、村の大部分を占める山林が主要な資源となっています。村内には、モリアオガエルの繁殖地が縁で親交があった詩人・草野心平が寄贈した3,000冊の蔵書を収めた天山文庫があり、今でも毎年7月16日に草野心平を偲んで「天山祭り」が行なわれています。

 

(その他写真)

 

門

 

岩魚料理

川内村の交流施設「いわなの郷」。釣り堀で岩魚釣りが楽しめるほか、レストラン幻魚亭ではさまざまな岩魚料理が味わえる

 

ふかしま。
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ふかしま。編集部
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