【広野町】新選組の生き残り、相馬主計と野村利三郎の戊辰戦争

2021.01.26
広野町 #広野の戦い#広野町#戊辰戦争#新選組#相馬主計#野村利三郎
二ツ沼古戦場跡石碑

鳥羽・伏見の戦いを発火点とし、明治新政府軍と旧幕府軍との間で行われた戊辰戦争。江戸の無血開城後、戊辰戦争は舞台を東日本に移し、東北の各地でも戦闘が行われました。その中に福島県広野町で繰り広げられた「広野の戦い」があります。この戦いに、新選組隊士だった相馬主計(そうま しゅけい)と野村利三郎(のむら りさぶろう)の姿がありました。*1

 

近藤勇の嘆願で処刑を免れた相馬と野村

 

相馬主計(そうま かずえ)は天保14年(1843)、常陸国笠間藩(現在の笠間市)の藩士の子として生まれました。土方歳三(ひじかた さいぞう)亡き後の、最後の新選組隊長とされる人物です。水戸藩士による天狗党挙兵に影響を受け、慶応元年(1865)に笠間藩を脱藩。第二次長州征伐の際に松山藩の歩兵として参戦し、その後上洛して新選組に入隊しています。

 

新選組は鳥羽・伏見の戦いの後に甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と名前を変え、江戸に向かって進軍する新政府軍を迎撃する任にあたりますが、このとき相馬は近藤勇の下で局長付組頭を務めていました。

 

その甲陽鎮撫隊は破れ、中心人物のひとり、近藤勇(こんどう いさみ)は捕らえられて処刑が決定。そこで相馬は助命嘆願のために近藤が拘束されている板橋宿を訪れます。ところがなんと、相馬自身もその場で捕縛され、近藤と一緒に処刑されることになってしまったのです。

 

このときは逆に、近藤からの除名嘆願によって処刑を免れることができましたが、もしかすると相馬は最初から捕まって処刑されることを覚悟して板橋宿に赴いたのかもしれません。

 

一方、野村利三郎は天保15年(1844)生まれで、出身は美濃国大垣藩ではないかとされています。新選組に入隊した経緯は不明ですが、近藤勇が新政府軍に投降したときに付き添っていた唯一の隊士が野村です。近藤と一緒に捕縛されましたが、相馬と同様に近藤の嘆願によって処刑を免れています。ふたりは謹慎処分となり、笠間藩預かりとなりましたが、おとなしくしているわけがありません。

 

相馬・野村:いつか必ず近藤さんのかたきを討ってやる! 

 

やがて笠間藩から脱走を図った後、相馬と野村は幕末に徳川の警備を目的として結成された彰義隊と行動をともにするようになります。しかし彰義隊は上野戦争で新政府軍に敗退。生き残った隊士たちは陸軍隊を結成して江戸を脱出し、新政府に抵抗するために奥羽(陸奥国・出羽国)と越州の諸藩が結んだ奥羽越列藩同盟軍に合流します。こうしてふたりは奥羽越列藩同盟軍とともに新政府軍と戦うことになったのです。

 

「沼二つ 通は鳥が巣あが心 二行くなもと なよ思はりそね」は、二ツ沼を詠った萬葉歌。その歌が刻まれた石碑が戊辰戦争の激戦地となった二ツ沼古戦場に立っている

 

 

決死の攻撃!新政府軍に立ち向かった「広野の戦い」

 

江戸を手中に収めた新政府軍は、会津方面と太平洋岸沿いの二手に分かれて北上進撃。海岸沿いでは奥羽越列藩同盟の拠点となっていた磐城平城を落とします。そして、退却する中村藩(相馬氏)と仙台藩(伊達氏)を追ってさらに北上を続け、現在の広野町の浅見川まで到達。対岸に陣取っていた同盟軍と再び戦闘となりました。これが「広野の戦い」の始まりです。

 

このときの新政府軍の主力は広島藩と鳥取藩。同盟軍側は仙台、中村の両藩に加え、彰義隊生き残りの陸軍隊約100名が加わり、士気は旺盛でした。その中にはもちろん相馬と野村の姿もありました。

 

ふたりは陸軍隊に所属しているものの、心情は新選組のときのまま。近藤勇の無念を胸に秘め、なんとしてでも新政府軍に一泡吹かせてやろうと、心に期するものがありました。

 

 

浅見川南側の高倉山城跡から望む浅見川周辺。川の右側から来た新政府軍と左側に陣取っていた同盟軍との間で火ぶたが切られた

 

 

浅見川北側から望む南側の様子。川の南側は高台で、新政府軍にとって有利な地形となっている

 

広野宿まで進出してきた新政府軍に対し、同盟軍は二ツ沼、弁天坂付近に大砲を据えて防御線を築きます。そして明治元年(1868)8月26日早朝、同盟軍は新政府軍に対して総攻撃を開始。同盟軍は兵を本道と浜手の2隊に分け、相馬の部隊は本道を、野村の部隊は浜手を進んでいきました。

 

新政府軍は民家から畳を取り出して、楯の代わりにして身を潜め、野村の部隊を待ち受けていました。野村たちはそれに気づかず、敵の罠の中に足を踏み入れてしまったのです。その刹那、新政府軍から一発の銃声が響きました。それを合図に野村の部隊に向かって一斉射撃が始まります。

 

野村:ひるむな! 突撃だ!

 

銃撃に身を伏せていた野村は、立ち上がって素早く抜刀し、先陣を切って飛び出していきました。勇猛果敢な戦いぶりが専売特許の野村ですが、さすがにこのときは無謀でした。野村に続いた隊員たちは次々に銃弾に倒れていきます。

 

銃弾が頬をかすめても出血にも怯むことなく突き進む。野村の顔には不敵な笑みが浮かんでいます。

 

野村:うぉーっ! 

 

野村は雄叫びを上げると、盾代わりの畳の後ろに潜んでいる新政府軍の兵士に切りかかっていきました。鬼のような形相で迫ってくる野村の勢いにのまれ、新政府軍の兵士は恐怖で一歩も退くことができません。野村は処刑された近藤の無念を晴らすかのように、ひと太刀、ひと太刀に力を込め、刀を振るい続けます。

 

野村の回顧:――利三郎、命を大事にしろよ――

 

ふと野村の脳裏に、やさしく語りかける別れ際の近藤勇の顔が浮かびました。

 

野村:近藤さん…

 

野村はあふれそうになる涙を堪えながら、それでも果敢に敵に立ち向かっていきました。

 

この日の戦闘、当初は土地勘のある同盟軍に有利に運びました。しかし、午後になって新政府軍側に援軍が到着するや、あっという間に形勢は逆転。同盟軍は後退を余儀なくされてしまいます。そこに追い打ちをかけるように新政府軍の軍艦からの艦砲射撃が始まり、同盟軍は弁天坂の砲台を放棄。北へと逃走していきました。

 

現在の「二ツ沼古戦場跡」とされる場所は、同盟軍側の防衛戦が築かれていた地。この戦いで仙台藩は参謀の中村権十郎(なかむら ごんじゅうろう)、中村藩は鬼将監として知られた相馬胤眞(そうま たねはる)をはじめ、幾多の犠牲を出したのです。

 

ふたりの新選組

新式の銃や大砲で攻めてくる新政府軍に対し、相馬主計と野村利三郎は新選組生き残りの意地にかけて刀で切り込んでいった

 

広野の戦いの後、陸軍隊は仙台まで撤退していきました。土方歳三(ひじかた としぞう)と合流し、榎本武揚率いる軍艦に乗って蝦夷地(函館)へいった相馬と野村。野村は明治2年(1869)3月25日に行われた宮古湾海戦にてついに戦死。相馬も但馬で司法関係の役人として勤務したのち免官し、明治8年(1875)に東京の自宅で割腹して自ら命を断ってしまいます。

時代の波に翻弄されながら、自分の信念に従い戦いの中で精一杯生きた相馬主計と野村利三郎。まっすぐな男の生き様に共感する人も多くいるのではないでしょうか。

 

 

二ツ沼総合公園から見た南側。二ツ沼周辺は旧広野宿よりも高い場所にある。遠くの少し高くなっている場所が浅見川のあたり

 

*1新撰組=幕末の京都で征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)を護り、治安を維持するために結成された部隊のこと。

広野町のこと

広野町は福島県浜通り地方の中部に位置し、東は太平洋、西には阿武隈山地が連なり、豊かな自然に恵まれた場所です。広野の名称は、江戸時代初期に浜街道、相馬路の広野宿が設けられていたことによります。明治22年(1889)に、夕筋、折木、上浅見川、下浅見川、上北迫、下北迫の6つの村が合併して広野町が生まれました。

現在の町の北部にはパークゴルフ場、サイクリングロードなどを備えた「二ツ沼総合公園」があり、町民の憩いの場として人気。また、町の新たな特産品としてオリジナル品種のバナナ「綺麗」の栽培に取り組んでいます。

ふかしま。
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ふかしま。編集部
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