【楢葉町】戦国ロマン!イケメン将軍、伊達晴宗と奥州一の美女、久保姫の略奪婚

2021.03.09
楢葉町 #久保姫#伊達政宗#伊達晴宗#岩城重隆#戦国時代

戦国時代、南東北の岩城郡を領地としていた武将・岩城重隆には、久保姫という娘がいました。久保姫は「杉目御前」「笑窪(えくぼ)御前」とも呼ばれ、小さいときからキュート。奥州一の美貌を誇っていたといいます。この姫をめぐり、花嫁を強奪したとか、それが原因で大きな合戦が行われたとか、そんな話がいろいろ残っています。久保姫とはどんなお姫様だったのでしょうか。浜通り地方に伝わる久保姫の逸話を紐解いてみましょう。

 

 

勢力を拡大し奥州制覇を企む伊達氏

 

まず、当時の南東北エリアの勢力関係について解説しておきましょう。久保姫が生まれた大永元年(1521)は、明応2年(1493)に始まった戦国時代の真っ只中。岩城氏は、隣接する白川結城氏とともに、伊達氏を後ろ盾とした相馬氏、田村氏と北側で領土を接し、そのため絶えず小競り合いを繰り返していました。

 

伊達氏といえば、多くの人はあの有名な独眼竜伊達政宗を思い浮かべるのでは? 当時の伊達氏第14代当主の稙宗(たねむね)は、政宗の曽祖父にあたります。稙宗は羽州探題(裁判権を持つ役職)の最上義定を破り、奥州探題大崎氏に代わって左京大府に任官。その後、陸奥国の守護となって勢力を拡大。南東北で頭角を現し始めていました。

 

 

久保姫に一目惚れした晴宗。これは運命なのか!

 

木戸城跡

岩城氏方の城であった木戸城(楢葉城)跡の、コの字型の土塁に囲まれた主郭と思われる広々とした場所。土塁はしっかりと残っているが、まったく整備されずに樹木が生い茂ったまま

 

北側から見た木戸城跡

北側から見た現在の木戸城跡。こんもりとした高台の上にあったとされるが、ここが城跡とはまったくわからない

 

伊達稙宗の嫡男(長男)が晴宗です。つまり伊達晴宗は伊達政宗の祖父。ということは、後に晴宗の正室となる久保姫は、政宗の祖母にあたるわけです。

 

久保姫が晴宗に嫁いだ経緯は諸説入り乱れており、真相ははっきりしていませんが、今回はその中のひとつ、「花嫁強奪説」から話を進めていきましょう。

 

岩城氏と伊達氏は、当時は敵対関係にあったので、晴宗と久保姫が出会う機会はまずありませんでした。ところが晴宗は、鷹狩りかなにかで偶然岩城領に迷い込み、久保姫を見かけます。なんと美しい娘。あれはどこぞの姫か。晴宗は久保姫の美貌に目が釘付けとなり、家来に尋ねます。

 

晴宗:あの娘はだれじゃ。そちは存じておるか?

 

家来:は、岩城重隆殿の娘御で、久保姫様ではないかと。

 

晴宗:噂には聞いておったが、なんという美しさじゃ。

 

家来:御意。

 

当時、久保姫は東北エリア随一と謳われる美貌の持ち主。晴宗は一目見たその瞬間から、久保姫のトリコになってしまったのです。これはもう運命というほかはないのかも!

 

それからの晴宗は、久保姫の姿が脳裏から離れず、なにをするにも気はそぞろ。食事ものどを通りません。

 

あるとき、そんな晴宗に知らせが届きます。久保姫が結城家第11代当主の結城晴綱に嫁ぐことが決まったというのです。晴宗がその話を聞いたのは、輿入れ当日のことでした。

 

久保姫の父・岩城重隆は、伊達氏が後ろ盾の相馬氏、田村氏に対抗するために、白川結城氏に久保姫を嫁がせて、連携を強固なものにしようとしたのです。晴宗はもう、いても立ってもいられません。

 

晴宗:ああ、あの姫を「晴綱ごときに取られてなるものか。馬を引けえーッ。

 

晴宗はすぐさま愛馬に飛び乗り、家来の軍勢を引き連れて城を飛び出していきました。

 

 

単身で花嫁行列に飛び込んでいった晴宗

 

晴宗は馬にムチを入れ、脇目も振らずに、ただただ久保姫の輿入れの行列を目指して突き進みます。あまりの速さに、従っている家来たちは付いていくのにもう必死!

 

そうして、ついに久保姫一行を発見! 晴宗は行列の前に立ちふさがると、ただちに家来の軍勢に命じて久保姫を護衛している者どもを蹴散らします。そうして大声に言い放ちました。

 

晴宗:われは伊達晴宗である。久保姫を頂戴しにまいった!

 

一同:は? な、なんと乱暴な。姫は輿入れが決まっている身。あっさりと引き渡すわけには行かぬ。ものども、姫を守るのじゃ! 侍女、姫を安全なところへ!お守りするのだ。

 

侍女:姫様、どうぞこちらへ。

 

花嫁を守ろうとする者、われ先にと逃げ惑う者が入り交じり、行列はパニックに陥りました。

 

恋焦がれた姫を手に入れようと晴宗は真っ直ぐに輿へと手を伸ばすと、バッと勢いよく扉を開けるや否や、久保姫を抱きかかえ、一気に馬上に引き上げて自分の前に座らせました。

 

久保姫:そ、そちは誰じゃ。何をする。わらわをどうするつもりじゃ。

 

晴宗:悪いようにはせぬ。黙って従うがよい

 

久保姫:あ……

 

晴宗は久保姫を馬に乗せたまま、その腹を蹴り、混乱した現場から全力で抜け出します。一瞬の出来事だったので、久保姫の供の者たちは訳がわからずあっけにとられたまま。久保姫にしても、何が起こったのか理解できませんでした。目の前に晴宗の精悍な顔があること以外は……。

 

本来ならば、久保姫は懐剣で自害しなければならないところです。しかし、久保姫を抱きかかえている晴宗の腕からは、圧倒的な力強さとともに温かみも感じられました。

 

久保姫(心の声):な、なんと雄々しいお侍様じゃ。この方はどこぞの殿であろうか。動きが取れぬが嫌な気がしない。わらわはこのまま攫われることを望んでいるのか……なにやら胸がときめいてしまうとは、はしたない……

 

久保姫は一瞬にして悟ったのです。力づくで自分を奪い取った晴宗の男らしさに強く魅かれてしまったこと、そしてこれが自分の運命なのかもしれないということに。

 

ちなみに、伊達晴宗は政宗の祖父だけあって、かなりのイケメンだったそうですよ。

 

イラスト

伊達晴宗はこんなふうに花嫁を略奪したのだろうか…

 

もちろん父親の岩城重隆は、こんな晴宗の乱暴な行為に激怒します。当然でしょう。晴宗との婚姻を許すわけがありません。

 

重隆:姫、我が屋敷に戻るのじゃ。

 

久保姫:わらわは戻りとうない。晴宗様と添い遂げると決めたのじゃ!父上、お許しください。

 

重盛:なんとふしだらな!お前のような娘は我が岩城家の恥!二度と屋敷の敷居を跨ぐことは許さん!親子の縁は切れたものと思え!

 

久保姫:父上!!!

 

重盛は久保姫を手元に戻そうとしますが、晴宗の館に連れ去られた久保姫は、すでに晴宗を愛するようになってしまっていたのです。

 

岩城重隆は久保姫を勘当しますが、久保姫自身、晴宗の嫁になる信念を曲げることはありませんでした。久保姫は認めてくれるよう父親に何通も手紙を出し続けます。

 

久保姫:父上、どうか娘の輿入れを、晴宗様と夫婦になることをお許し下さい。晴宗様との婚儀は運命。けれどもわたくしは父上と離れることも譲れないのです。

 

結局、岩城重隆が折れ、晴宗と久保姫の子供を岩城家の養子として迎える条件を付けることで、ようやく婚儀が許されたのでした。

 

 

子宝に恵まれた久保姫

 

久保姫は天文10年(1541)頃に晴宗の正室となってから、晴宗との間に六男五女、合計11人の子だくさんに恵まれました。晴宗は久保姫に対する一途な愛を貫き通し、一生側室を設けることはなかったと言います。

 

晴宗の愛情に応え、久保姫も精一杯の愛で晴宗を支えたとか。婚姻が政治の道具として使われることも珍しくなかった戦国時代ですが、久保姫と晴宗のお互いの愛が戦国の世を生き抜く力となり、それはやがて伊達氏の隆盛へとつながっていったのかもしれません。

 

婚姻の約束反故が木戸金剛川の合戦に

さて、以上が久保姫強奪説ですが、実はもうひとつの物語、江戸時代になって相馬藩の家臣が編纂した『奥相茶話記』によると、話が全く異なります。

 

『奥相茶話記』によれば、相馬氏当主の相馬顕胤が仲人になり、久保姫はもともと晴宗に嫁入りする約束があったとというもの。父である岩城重隆が破談にし、結城晴綱に嫁がせようとしたというのです。仲人の相馬と岩城との因縁の関係から一時は合戦にまで話が及びますが、(これが、有名な木戸金剛川の合戦)結局は相馬の勝利に終わり、予定通り晴宗の元へ嫁いだとされています。その後の展開は同じ。重盛は晴宗と久保姫の子を岩城家に養子に迎え、岩城の家督を2人の息子である鶴千代丸に継がせたのでした。

 

今では金剛合戦の舞台となった金剛川はありませんが、その河口に近いところには「金剛川原」という地名が残っています。

 

木戸川

資料がないものの、相馬氏のものであると想像される天神山城跡。木戸川の河口にあり、南側に急峻な地形と木戸川、東側に太平洋、北側は外堀と土塁に囲まれた非常に堅牢な造りであったことが想像できる

 

土塁と空堀

天神山城は戦国時代末期の城跡だと考えられている。写真のような土塁と空堀もしっかり見ることができる

 

道路標識

木戸川の河口にほど近い場所に金剛川原という地名が残っている。現在、金剛川と呼ばれる川は存在しないが、地名からかつてこのあたりに金剛川が流れ込んでいたと想像できる。木戸金剛川の合戦はこの周辺で行われたのだろうか…?

 

天神山城から見た南側の木戸城方面

天神山城から見た南側の木戸城方面。ちょうど真ん中あたりに岩城氏の木戸城跡を望むことができる。間には遮るものは何もない。左側の海の彼方に見える煙突は広野第二火電所

 

伊達晴宗のひとめ惚れから始まった、戦国の恋。結婚が政の道具に使われる時代にあって、このような一途な恋を貫くことができたのは極めて稀なことだったでしょう。久保姫がすぐに恋に落ち、その情熱を貫いたというのも、この時代ではありえないことだったのかもしれません。久保姫って、意外とじゃじゃ馬姫だったのかもしれませんね。もしあなたが久保姫だったとしたら…その後はどんなストーリーになるのでしょうね。

 

もう一つの物語で戦の舞台ともなった木戸川は、現在、木戸川渓谷として多くの観光客がハイキングに訪れるところ。木戸川ダムを始め、数々の滝や神社があり、ハイキングの名所ともなっています。実際の合戦が行われた金剛川はありませんが、近くの自然豊かな木戸川渓谷を歩いてみれば、晴宗に抱かれた久保姫の道中の様子がかいま見えるかもしれません。

 

(楢葉町歴史)

福島県東部の浜通り地方のほぼ中央に位置する楢葉町。豊かな自然を有し、比較的寒暖の差も少なく、過ごしやすい気候が特徴です。「楢葉」という言葉は、古くは平安時代の書物に「楢葉郷」という地名として登場し、現在の広野町から大熊町あたりまでがその地域だったと考えられています。現在の楢葉町は、昭和31年(1956)に木戸村と竜田村が合併して生まれました。木戸川では、鮭のやな漁が昔から行われており、震災前には多いときで10万匹もの鮭が川を遡上していました。震災後に一時途絶えましたが、現在では再開されています。

 

 

(その他の写真)

 

道の駅ならは

木戸城にほど近い国道6号線沿いにある「道の駅ならは」。フードコート、物産館のほか、温泉保養施設も併設されている

 

本格イタリアンジェラート

「道の駅ならは」の名物、手作り本格イタリアンジェラート。素材本来のおいしさが味わえる

楢葉町のこと

福島県東部の浜通り地方のほぼ中央に位置する楢葉町。豊かな自然を有し、比較的寒暖の差も少なく、過ごしやすい気候が特徴です。「楢葉」という言葉は、古くは平安時代の書物に「楢葉郷」という地名として登場し、現在の広野町から大熊町あたりまでがその地域だったと考えられています。現在の楢葉町は、昭和31年(1956)に木戸村と竜田村が合併して生まれました。木戸川では、鮭のやな漁が昔から行われており、震災前には多いときで10万匹もの鮭が川を遡上していました。震災後に一時途絶えましたが、現在では再開されています。

 

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