【浪江町】宿敵、伊達政宗を厚遇した相馬義胤の武士道

2021.01.28
歴史 #上杉景勝#伊達政宗#北の関ヶ原#慶長出羽合戦#水野胤鎮#華光院

日本の歴史を大きく動かした出来事のひとつとして、誰もが知っている関ヶ原の戦い。しかし、美濃国の関ヶ原を主戦場とする東軍と西軍の激突だけが関ヶ原の戦いなのではありません。その裏側では、徳川方と豊臣方の攻防をめぐり、日本各地でさまざまな戦いが行われていました。ここ東北の地で、上杉軍と最上・伊達連合軍によって繰り広げられた「慶長出羽合戦」もそのひとつ。かつて「北の関ヶ原」と呼ばれた戦いです。ここではそれにまつわる、浪江町を舞台とした相馬義胤と伊達政宗のエピソードをご紹介しましょう。

 

 

標葉氏ゆかりの「華光院」

 

JR常磐線・浪江駅から西へ徒歩10分ほどのところにある「正西寺(しょうさいじ)」は、元和2年(1616)に開基された歴史ある真宗大谷派のお寺。この寺地には、かつて天台宗の「華光院(けこういん)」という寺院がありました。

 

華光院は明治3年(1870)年、双葉町寺沢村の仲禅寺と合併して寺沢村に移転したことで、今はこの地にありません。しかし、ここで紹介する華光院に残る歴史エピソードは、歴史好きなら大いに興味をそそられるのではないでしょうか。

 

 

北の関ヶ原と伊達政宗

 

正西寺の案内板には、寺院の由来に加え「華光院と(元正西寺)と伊達政宗」という見出しで、慶長5年(1600)に、仙台藩主の伊達政宗が、この地を通過したことが示されています。

 

伊達政宗といえば、「独眼竜」の異名をとった誰もがその名を知る戦国武将。そして慶長5年は「関ヶ原の戦い」があった年。これらが、華光院とどうつながるのでしょうか……。その前に、関ヶ原の戦いと、時を同じくして起こった「北の関ヶ原」と呼ばれる出来事についてちょっと触れておきましょう。

 

関ヶ原の戦いは、よく知られているように石田三成率いる西軍8万3千人と、徳川家康率いる東軍7万数千人が雌雄を決した決戦。その直接的なきっかけは、石田三成が宣戦布告し、伏見城を攻撃したことにあります。

 

ところが、このとき徳川家康は伏見城にはおらず、上杉を討伐するために小山(栃木県)に陣を張っていました。上杉討伐を口上に、わざと伏見城を留守にし、石田三成の挙兵を誘ったというのが定説となっています。

 

「三成挙兵」の報を受け、福島政則をはじめとした大名に、討伐の矛先を上杉景勝から石田三成に向けさせ、わずかな守備隊を残して関ヶ原の戦いへ挑む……。これが徳川家康の描いたストーリーでした。徳川家康にとって、上杉を征伐することなんかは二の次だったのですね。

 

とはいえ、上杉景勝の動きは抑えておかなければなりません。そのために必要だったのが、徳川方にいた伊達政宗の力。事実、家康率いる東軍の主力部隊が小山から去ると、上杉軍は東軍を追って最上義光の領地へ侵攻してきます。そのとき、伊達政宗は上杉軍の名将・直江兼続に押される最上軍を「長谷堂城の戦い」で助け、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利するまで、最上軍を持ちこたえさせました。

 

伊達政宗は関ヶ原の戦いそのものには参戦していませんが、実はちゃんと裏で家康をサポートしていたのです。この「上杉」vs「最上+伊達」の戦いが「慶長出羽合戦」、そして「北の関ヶ原」とも呼ばれるゆえんです。

 

正西寺の案内板

正西寺の案内板には、いくつかの興味深いエピソードが記されている。かつてこの周辺に住んでいた南朝方親王の寓居であったともいわれている

 

 

伊達政宗の命を救った相馬家の老臣・水野胤鎮

 

さて、舞台を慶長5年の華光院に戻しましょう。石田三成は当初、西から自軍、北から上杉軍を動かして、徳川軍を挟み撃ちにする戦略を立てていました。その先手を打つために、徳川家康は伊達政宗に本国へ戻るように命じます。敵を避けるため、常陸国から相馬を経て仙台へと向かおうとする伊達政宗。付き従う兵は、このときわずか50騎程度。

 

当時、相馬氏の当主の相馬義胤と伊達政宗は衝突を繰り返してばかりでした。つまりは犬猿の仲だったのですが、政宗が最短最速で本国に帰還するには、その相馬義胤の統治する地域を通り抜ける必要がありました。

 

そこで伊達政宗は、相馬氏の領地に入るところで使者を出素こととしました。

 

伊達政宗:命の危険に晒すかもしれぬが、相馬に使いに出てくれぬか?

 

伊達の使者:御意。殿のお望みとあらば。

 

使者は相馬藩につくと義胤への取次を依頼し、こんな口上を述べました。

 

伊達の使者:我は伊達家家臣でござる。ゆえあって、我が主君は国に戻らねばならなくなり申した。ついては相馬殿の所領を通らせていただきたく、城下に宿泊所をご用意願えないだろうか。

 

相馬氏が西軍と東軍のどちらにつくか旗色を鮮明にしていなかったとはいえ、あまりに危険、かつ無謀な要求だったといえるでしょう。当然、相馬義胤はこれを伊達政宗討伐の好機と捉えます。

 

相馬義胤:政宗が我が所領を通りたいとな? ふっふっふ、政宗めがなにを考えていることやら。よし、やつを領内に入れて泊めてやれ。その上で夜討ちをかけようぞ!

 

政宗の一行を迎え入れ、「討ち果たしてしまえ」と、義胤は家臣を集めて謀議を始めます。そして、政宗の宿泊所として用意されたのが華光院です。この謀議の席で、当主の義胤に意見したのが水谷胤重(みずがい・たねしげ)というひとりの老臣でした。水谷は義胤にこう切り出します。

 

水谷胤重:殿、お待ちくだされ。恐れながら申し上げます。

 

相馬義胤:水谷か。なんだ、申してみよ。

 

水谷胤重:窮鳥、懐に入らば猟師もこれを殺さずと申します。

 

相馬義胤:うむ、それで?

 

水谷胤重:僅かな兵とともにやって来て、願いを請うている政宗殿を討ち取るのは勇者のなすべきことではありませぬ。政宗殿を国へ帰し、後に戦となれば、両家が正々堂々と雌雄を決するのが筋。そのように存じまする。

 

水谷胤重の父・胤氏(たねうじ)は、伊達氏との戦いによって落命しました。つまり、伊達政宗は、胤重にとって「父の仇」といってもいい相手。それにもかかわらず、武士の誇りを第一に、戦のなかで正々堂々と戦うことを主張したのでした。相馬義胤はこの水野胤鎮の意見に強く納得し、華光院で伊達政宗を饗応。兵士に食料や馬の飼葉などを提供したといいます。

 

先の謀議の席では、水野胤鎮は同時に、伊達政宗の深謀遠慮についても自らの意見を述べました。

 

水谷胤重:伊達との国境まではここから三里ほど。しかも時刻は未の刻(ひつじのこく/13~15時)。本国まであと僅かだというのに、わざわざ泊まりたいというのが腑に落ちませぬ。政宗殿ほどの男、なにか裏があってのことでは……。

 

ハッとした義胤は、翌朝、家臣に国境を目指す伊達政宗一行のあとをつけさせました。すると国境付近には伊達家の軍勢が。夜討ちをかけられた際には反撃できるよう、政宗は事前に手を打っていたのでしょう。

 

ともあれ、華光院に足を留めた伊達政宗。その時の覚悟はこのようなものだったでしょう。

 

伊達政宗:領地の通過を請うだけでは拒絶されるやもしれぬ。宿泊を願い出て、わし自らを人質の形にして許しを求めてみよう。ここは相馬義胤の武士道精神にかける。

 

その本心を推し量ることはできませんが、相馬領地を無事に通過できたことで、彼が後の「北の関ヶ原」で活躍できたのは間違いありません。

 

正西寺本堂

正西寺の本堂。この寺地にあった華光院に宿をとった伊達政宗。水野胤重の具申は、相馬氏はもとより、徳川家康にとっても歴史を決定付けた出来事だったといえそうだ

 

伊達政宗公騎馬像

仙台城(青葉城)跡地にある伊達政宗公の騎馬像。戦国武将の威厳に満ちている

 

 

後の相馬家を救うことにつながった水谷胤鎮の意見

 

実は、この話はこの後、伊達から相馬への恩返しのエピソードへと続きます。関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康が東軍に与しなかった大名の処分を行なうなか、相馬氏は改易されることとなりました。そのとき、相馬氏の弁護に奔走したのが伊達政宗なのです。政宗は、かつて相馬領を通過した出来事を家康に訴えます。

 

徳川家康:義胤も他の大名同様に処分してくれる。使いを出せ!改易を申し伝えるのだ!

 

伊達政宗:殿、お待ちください!遅れながら申し上げます。義胤殿はそれがしを討ち取ることができたのに、積年の恨みを忘れて厚遇してくれ申した。義胤殿に西軍に味方する考えがあったはずがありましょうや。

 

最終的にこの訴えが聞き入れられ、相馬氏の改易は撤回。さらに加え、中村藩として本領安堵の結論が出されます。その後、相馬氏の中村藩は、明治維新の後も中村県として存続し続けました。

 

水谷胤重が武士道を重んじて当主に述べた意見を取り入れた相馬義胤。伊達政宗を討つという決断をしていたのなら、歴史も大きく変わったことでしょう。果たしてどちらが相馬氏にとって利益をもたらしたのかは定かではありませんが、少なくとも武士としての誇りを第一に考えたこの決断が「相馬」の名を高め、今現在、この地に住む人の誇りにもつながったのだと言えるでしょう。

 

相馬義胤イラスト

相馬義胤は相馬家第16代当主。88歳の長寿を得た

 

 

浪江町役場

現在の浪江町役場。震災からの復興はまだ緒についたばかりだが、その事業の中心としてさまざまな施策が打ち出されている

 

 

浪江町のこと

浪江町は南北に長い福島県・浜通りの真ん中あたりにあり、大阪市と同じくらいの広さ(約223平方キロメートル)の町です。町内には縄文時代の遺跡など、古くからの文明の形跡が見られ、その後も独自の弥生文化を築いていたことが確認されています。平安時代の頃は標葉(しねは)氏がこの地を支配し、やがて標葉氏は相馬氏に滅ぼされ、明治に至るまで相馬氏の統治が続きます。2011年の東日本大震災、そして福島第一原子力発電所の事故に際しては、およそ21,000人の住人の多くが避難のため、ふるさとの町を離れることを余儀なくされました。それから6年後、2017年になってやっと一部の避難指示が解除。現在(2021年)は1,500人ほどが町への帰還を果たし、復興も徐々に進み始めています。

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