【田村市】民を守り、朝廷軍と戦った優しき鬼、大多鬼丸伝説

2021.01.28
歴史 #坂上田村麻呂#大多鬼丸#大滝根山#大越町#朝廷軍#蝦夷#鬼

今から1200年ほど前の平安時代初期、現在の田村市と川内村の境界にそびえる大滝根山の山のふもとに大多鬼丸という豪族が住んでいました。大多鬼丸は時の中央政府(ヤマト政権)に逆らい続けていたため、怒ったヤマト政権が差し向けた軍勢と戦いになり、やがて討伐されることに。朝廷にも逆らったことから、後世では鬼の名で呼ばれることになってしまいました。けれども実際は庶民の味方だった大多鬼丸。今回はそんな田村市の英雄、大多鬼丸伝説をご紹介しましょう。

 

朝廷に逆らうと鬼の名が付けられてしまう

 

大多鬼丸は、伝承では大滝根山を根城に旅人や土地の人々を襲って暴れ回る賊の首領であり、それを討伐した坂上田村麻呂(さかうえたむらまろ)が正義の味方というストーリーで語られることも少なくありません。

 

けれども田村市内での大多鬼丸の評価はさまざま。単に悪鬼の汚名を着せられているにすぎず、本当は飢えで困っている人には食を、病に伏せている人には良薬を与えて豊かな集落をつくり、多くの人に慕われていた指導者だったという言い伝えもあります。さて、実際の大多鬼丸はどんな人物だったのでしょうか?

 

像の横に建てられている石碑

像の横に建てられている石碑には、大多鬼丸は北東の英雄とされている。やはり悪い鬼ではなかった?

 

鬼伝説の里

田村市の歴史には坂上田村麻呂と鬼の伝説が多く登場する。大越町(おおごえまち)は田村麻呂の軍勢が白鳥に導かれて見晴らしのいい広野に出たとき、兵士が大声を上げたことからついた地名なのだとか

 

 

東国は小さな独立国だらけ

 

大多鬼丸が中央のヤマト政権に逆らっていたと伝えられていますが、それはなぜなのでしょうか。

 

奈良・平安の頃は、ヤマト政権は近畿一帯では強大な勢力を誇っていたものの、その力が関東以北(東国)に及んでいたわけではありませんでした。

 

そのため、東国には力のある豪族が並び立ち、それぞれの族長が自分たちの勢力範囲を治めている=小国が沢山あるような状況だったのです。

 

大多鬼丸がにらみを利かせていた地域もそのひとつ。そこにいきなり中央政府がやってきて権威を振りかざし、「土地をよこせ、税を納めろ、ヤマトの支配下に入れ」などと言ってきたのですからたまりません。

 

大多鬼丸たちにしてみれば、とうぜん「この土地はワシらのもんだ!」というところ。

 

大多鬼丸のほかにも、政府に反抗する族長は東国に多くいました。現在の岩手県奥州市あたりで勢力を持っていたアテルイ(阿弖流爲)などもよく知られていますが、もちろん、それで引き下がるようなヤマト政権ではありません。

 

坂上田村麻呂:ならばまとめて征伐するまで

 

と、東国平定の大軍を送ります。征夷大将軍とされる軍の指揮官は坂上田村麻呂がつとめることになりました。

 

当時、東国に住んでいた人々は蝦夷(えみし)と呼ばれていました。「夷」という字には未開人という意味があり、ヤマトから見れば東国は文明の劣る地。征夷大将軍は、いわばその地に住む未開人を征伐する軍の司令官だったのでした。

 

坂上田村麻呂イラスト

征夷大将軍として有名な坂上田村麻呂だが、実は2代目(初代は大伴弟麻呂)。田村市内には田村麻呂が先勝祈願で訪れたという神社が多くある

 

 

ゲリラのように田村麻呂軍を翻弄した大多鬼丸

 

さて、坂上田村麻呂は蝦夷討伐軍を率いてはるばる東国までやってきたものの、大多鬼丸が支配している地域(阿武隈山系)は人の出入りがあまりなく、都から来た人間、それも大軍が通れるような道などありません。山は昼でも暗く、ツタに絡まったり大木が行く手を阻んだりと、田村麻呂たちは行軍に苦労したことでしょう。戦いが始まっても、大多鬼丸の兵がどこから現れるかわかりません。

 

一方、大多鬼丸サイドにしてみれば、ここは完全に自分たちの庭。藪の中をスイスイ走り回り、田村麻呂軍を翻弄します。おびき出して崖から突き落としたり、取り囲んで毒矢を射ったりと、最初のころは有利に戦いを進めていきました。

 

田村麻呂(たむらまろ):なんとも不利な情勢になってきたぞ。さて困った。どうしたもんか。

 

焦りを感じた田村麻呂(たむらまろ)は都に援軍を要請し、長期戦に戦術を変更。ゲリラのように現れる大多鬼丸の兵と野戦で戦うのは不利と判断し、なんとか大多鬼丸の拠点を見つけて、そこを叩こうと考えをめぐらせました。

 

とはいえ、肝心の大多鬼丸の拠点は一体どこに?

 

田村麻呂(たむらまろ)が思案していると、どこからともなくやってきた白い鳥が頭上をバタバタ飛び回り始めました。その様はまるで「こっちへ来い」と導いているように感じられました。田村麻呂が軍を率いて鳥の後をついていくと、目の前に見通しのいい広い窪地が現れます。その場所こそが大多鬼丸の砦が築かれている場所だったのです。

 

大滝根山登山道入り口

大滝根山登山道入り口。いまでこそ道は歩きやすくなっているものの、1200年前はどうだったのだろうか。田村麻呂(たむらまろ)は行軍に相当苦労したに違いない

 

白鳥神社

白鳥神社は道案内の白鳥が飛び立ったとされる場所に建てられ、白鳥大明神が祀られている。内部には大多鬼丸と田村麻呂軍の戦いが描かれた彫り物が収められているが、取材時、立ち入りはできなかったので外側を撮影しました。

 

拠点を見つけられ、追い詰められた大多鬼丸は覚悟を決め、自分を信じてついてきた部下たちに伝えました。

 

大多鬼丸:とうとう最後のときがきたようだ。ワシはここで死ぬが、敵の田村麻呂様は立派なお方ゆえ、降参する者の命までは取るまい。みなのもの、無駄死にするでないぞ。

 

部下の兵:大多鬼丸さま!我らもお供いたします。

 

大多鬼丸:それはならん。みなは生き抜き、この地で幸せに暮らし続けるのじゃ。

 

部下の兵:涙

 

そうして大多鬼丸は自らの首を切り、鬼穴の中で果てたのでした。このとき、一の家来だった鬼五郎もあとを追って殉死したといわれています。

 

統領を失った大多鬼丸の兵士らは次々に降伏し、長い戦いは終わりました。苦戦を強いられた田村麻呂(たむらまろ)は、大多鬼丸の武勇を偲び、その首を仙台平に丁重に葬ったといわれ、その首塚は今に残されています。

 

大多鬼丸が身を隠していた拠点は「鬼穴」と呼ばれる鍾乳洞。現在の入水鍾乳洞とあぶくま洞の中間あたりだと言われています。見応えのある鍾乳洞やその亡骸が眠る首塚を訪れ、当時の様子を想像してみると、大多鬼丸の気持ちが理解できるかもしれません。

 

鍾乳洞の内部案内図

鍾乳洞の内部案内図。長距離にわたって洞は続き、すべてを歩くには結構な時間がかかる。大多鬼丸が潜んだ鬼穴も、きっとこんな状況なのだろう

 

あぶくま洞内部

あぶくま洞内部には、かなり広い空間の箇所も。鍾乳石にはその形状に応じてさまざまな名前が付けられていて興味深い

 

大多鬼丸の首塚

仙台平に残る大多鬼丸の首塚。ここは現在バラグライダーの基地となっている。坂上田村麻呂は、あぶくま一円が見渡せることから大多鬼丸の首をここに葬ったのだとか

 

 

田村市のこと

田村市の位置は、福島県中通り地方の阿武隈高原。田村という地名は、坂上田村麻呂の子孫である戦国大名の田村氏がこの地を支配していたことに由来します。そのため、市内には坂上田村麻呂軍東征の際の出来事にちなんだ地名や神社などが多くあり、大多鬼丸退治をはじめとするさまざまな伝承に満ちています。田村市という自治体になったのは比較的新しく、平成17年(2005)に田村郡の滝根町、大越町、都路村、常葉町、船引町が合併して発足しました。

 

ふかしま。
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ふかしま。編集部
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