【飯館村】虎捕山の橘墨虎退治と白狼の伝説

2021.01.28
歴史 #橘墨虎#源頼義#狼信仰#藤原景道#虎捕山

飯舘村の歴史は、山津見神社なしに語ることはできません。今から千年ほど昔の永承6年(1051)、虎捕山麓に創建されたこの神社は、狼信仰の舞台となっています。その元となっているのが、橘墨虎という暴君にまつわる伝承。飯館村に伝わるそんな昔話を紹介しましょう。

 

虎捕山

虎捕山。山麓の山津見神社拝殿から山道を登った中腹に本殿が、また墨虎が隠れていたという岩窟「虎捕洞」がある

 

 

凶賊橘墨虎と源頼義公にまつわる伝承とは

 

その昔、後一條天皇の御代(約千年前)、真野の里に生まれ育った橘墨虎(たちばなのすみとら)という凶賊(わるもの)がいました。墨虎は人並み外れて大きな体躯を持ち、しかも神通力のような不思議な力まで備えていたといいます。そして、多くの部下を引き連れて周囲の村落を襲い、強奪を繰り返していました。

 

墨虎:おぅ。いいもんがあるじゃねぇか。米か。これもらっていくぞ。他にも金めのもんやだせるものがあったら出せ!

 

村人1:そっ、そんな…これはこれから領主様に収めるための…

 

墨虎:うるせぇ! つべこべ言わずに全部だせ。金もだ!

 

村人1:ひ、ひぃ…命だけはお助けを…

 

――墨虎の通るときは、ひとびと皆縮みあがりて逃げ惑う――

 

そんな墨虎を恐れながらも、当時の豪族の多くは墨虎に服従していました。朝命に従わず、北部の霊山に物見台を設け、周囲を睥睨(へいげい)する墨虎の勢力はまさに猛虎のようだったと伝えられています。

 

それからしばらく時が経った後冷泉帝の御代の永承6年(1051)、源頼義(みなもとのよりよし)公が奥境鎮守のため、この地にやって来ました。

 

村人1:頼義様が来られたというでねえか。お願いすればあの墨虎のこと、なんとかしてくれるかもしんねぇぞ。

 

村人2:大丈夫か? 墨虎はとんでもねえヤツだがらな。

 

村人3:うんにゃ、頼義様はそりゃあ強くておやさしい方だと聞いとるど。家来衆もお強そうだしの。ワシらの頼みを聞き届けてくれるかもしんねえ。

 

村人4:そうだったらええなあ。よし、皆で直訴しに行くべか。

 

一同:んだんだ。そうするべ。

 

長く墨虎の暴挙に苦しめられてきた人々にとって、その窮状を訴え出る機会がやっと訪れたとおもった村人たちは頼義公のところに相談に行きました。

 

村長:お殿様。ワシらは長い間、墨虎に苦しめられてきた。一生懸命作った野菜も米もみーんな持っでいがれてばかりで、もう限界だ。どうかお殿様の力でこの状況をなんどかさしておくんなせえ。

 

頼義:ふむ。それは不憫なり。よし、早速その墨虎とやらの討伐を計画してやろう。

 

村長:ありがどうごぜえます。(涙目)

 

こうして頼義公は村人たちの願いを聞き入れ、さっそく家来に命じて墨虎の討伐を計画します。

 

頼義公の軍勢は、墨虎の一党がいる霊山のふもとに向かい、激しい戦いを繰り広げました。訓練された武士ばかりの頼義公の軍勢はさすがに強く、やがて墨虎側は総崩れ。すると墨虎は非情にも部下を捨て、単身で亘理(現在の宮城県)方面に逃れていきました。

 

墨虎:くっ。もはやこれまで。残っているやつだけじゃあ戦には勝てねぇ。ひとまず逃げるか。

 

頼義家来:卑怯なり墨虎!一人逃げるとは恥ずかしくないのか!

 

墨虎:命がなくなっちゃあおしめぇよ。こちとら武士でもなんでもないんでな。

 

頼義家来:ま、まてぇー!

 

頼義の家来は惜しくも墨虎を逃してしまいます。帰還した家来たちは頼義公に報告します。

 

頼義家来:申し訳ございません。いま一歩のところで墨虎を討ち果たすことができませんでした。

 

源頼義:そうか。だが、このまま放っておくわけにもいくまい。討ち取らねばこの先、村人たちも安心できぬ。なんとか探し出す方法はないものか…。

 

頼義公が大いに悩んでいたある夜、夢の中でこんな言葉が聞こえてきました。

 

――墨虎を獲んと欲せば、白狼の足あとをふみ追うべし――

 

源頼義:なんと不思議な夢であったな。もしかすると山の神のお告げかも知れぬ。よし、ここはひとつこの言葉に従ってみるとしよう。

 

頼義公は、直ちに家臣の藤原景道に墨虎追跡を命じます。命を受けた景道は、地元の里人である菅野蔵人、今神助右ェ門という人物を道案内に連れて、墨虎の捜索を開始しました。そして、険しい山中に分け入っていくと、ひとつの獣道が見つかったのです。その先は、周囲よりひときわ高くそそり立った厳石に向かって続いていました。

 

藤原景道:殿の御夢に出てきた白狼の足跡とは、おそらくこれに違いなかろう。

 

景道が獣道をたどっていくと、果たして墨虎は厳石の近くの岩窟(籠石)に潜んでいたのでした。

 

藤原景道:見つけたぞ、墨虎! 天罰免れるべからず、朝命の刃に伏せ!

 

墨虎:しつこく追ってくるとは。この度も逃げおおせてやる。

 

そう言って走り出した矢先……。

 

墨虎:うっ…こ、これまでか。

 

憤然として叫ぶ景道が投げた短刀は、墨虎の背に刺さり、腹まで貫きました。こうして墨虎は退治され、周囲の村々に安寧が訪れたのです。

 

頼義公は、墨虎退治の指南「白狼の足あと」を示唆してくれた山神の威徳を感じ、山頂に祠を建てて、これを虎捕山神として報賽したのでした。そして、この山は墨虎を捕らえた場所であることから「虎捕山」と呼ばれるようになり、山麓には山津見神社が建立されました。

 

源頼義イラスト

源頼義。武芸にすぐれ、類まれな弓の達人だったという。官位は正四位下まで昇叙し、後に剃髪して信海と号した

 

 

狼信仰の舞台。深山幽谷の地に建立された山津見神社と山の神

 

さて、冒頭で飯舘村の歴史は、山津見神社なしでは語れないと書きましたが、墨虎の物語で出てきた山の神こそが、ここに祀られた神様の使いだったのではないかと思えてきます。

 

山の神は、正しくは「大山津見神」。神典によれば、鹿屋野比売神(野の神)と山野のすべてを主宰(つかさ)どり、坂・谷・盆地の神々を次々に生んだとされています。つまり、山の神は、国土を守る神そのものであり、最も清浄なところである「山」を名前にしているのです。

 

山津見神社は飯舘村中心部から北北西、直線距離にして約6kmの、周囲を深い山に囲まれた深山幽谷の地にあり、産業、交通安全、海上安全・豊漁、良縁結び、安産祈願、酒造、狩猟の神など多くの神徳を持つ神社。山神の眷属とされる狼や白狼への信仰が篤く、火難盗難除の「御眷属」という神札の授与も行われています。鎮座地である「佐須」という地名は、藤原景道が投げた短刀が墨虎に「刺さった」ということにちなんだものと伝えられています。

 

山の神の御使いは「白狼」で、一般に「御眷属様」と尊ばれています。もともと神社には、御祭神とそれに仕える眷属の神々がいて、その下に御使いの動物がいるとされています。しかし、白狼の働きがことのほか著しかったため、ほかと区別してここでは「御眷属様」と呼ばれるようになりました。

 

山津見神社

人里離れた山中に創建された山津見神社。境内には社務所があり、眷属の狼と白狼の石像、日本武尊(やまとたける)の像が置かれている

 

石碑

山津見神社本殿への入口。石碑で示されているのでわかりやすい

 

登山道

山津見神社本殿は、拝殿の裏から続く登山道でアクセスする。奥宮本殿までは約650mの道のり

 

飯舘村は国土のシンボルである山の神、そして猛々しくも霊験あらたかな山津見神社が鎮座する、歴史と伝承の豊かな地。東日本大震災の影響で、かつて全村避難を強いられるという出来事もありましたが、風光明媚な村内を旅していると、いつしか悠久の昔に時が遡り、そこに導かれていくような気持になってきます。

 

 

飯館村のこと

福島県飯舘村は浜通り夜ノ森以北の阿武隈高地中腹、標高約500mのあたりに位置しているのどかな村。南相馬市で太平洋に注ぐ新田川の上流部に当たるため、古来より南相馬市との交流が深く、江戸時代には中村藩(相馬氏)の領土でした。現在の飯舘村はかつて中村藩による区分の「山中郷」と呼ばれた地域で、明治4年(1871)の廃藩置県により、中村県に属しました。その後、幾度かの複雑な合併を繰り返し、昭和31年(1956)の大舘村と飯曽村の合併によって現在の飯舘村となりました。平成22年(2010)には「日本で最も美しい村」連合に加盟し、素朴な里山風景と豊かな自然で注目を浴びています。

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ふかしま。編集部
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