【葛尾村】失意の失脚、葛尾村に暮らした南朝の末裔、信雅王

2021.01.25
歴史 #伝説#信雅王#和名類聚抄#後亀山天皇#葛尾村
葛尾村・五十人山

葛尾村は福島県浜通りの双葉郡に属し、面積約84キロ平方メートル、人口はおよそ1,400人という小さな山村です。

 

この地は昔、染羽の国と称して後陸奥の一郡となり、平安時代につくられた『和名類聚抄』(辞書のようなもの)に標葉(しねは)郡の郷名が載せられていました。2011年3月の東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故により、全村避難を余儀なくされましたが、2016年に一部を除いて避難指示が解除され、徐々に帰還者が増加。村としての活動が再開されつつあります。

 

葛尾村にはかつて「天皇が住まわれていた」という伝承があります。

 

「ある説」によれば、その昔、確かに天皇家の末裔、もしかしたら天皇に即位したかもしれない人物が住んでいたのだとか。その節は信用できる情報なのでしょうか。 朝廷が南北に分裂していた室町時代末期の、歴史の底に潜むちょっとミステリアスな事件を追ってみましょう。

 

葛尾村に天皇が住まわれていたという「とある説」

 

この地に住まわれていたと伝わる天皇は、熊野宮信雅王(くまのみやのぶまさおう)といい、南朝の末裔だったといいます。父は尊雅王(たかまさおう)です。

 

その信雅王(のぶまさおう)が住んでいたのは、現在の葛尾村のシンボルでもある五十人山の麓。「高野城」と呼ばれる居城でした。ただしそれは540年ほども昔の話。今となっては高野城がどの辺にあったのかさえ、わかりません。

 

葛尾村の信雅王は後亀山天皇(上皇)のひ孫だった?

 

では、位の高い信雅王(のぶまさおう)はどのようにして、この葛尾村までやってきたのでしょうか? 

 

明徳3年(1392)、後亀山天皇が退位したのを最後に、皇族争いに敗れた南朝は、その後も北朝に対して反発を続けます。これが「後南朝」。南朝の末裔については諸説ありますが、そのひとつをご紹介しましょう。

 

後亀山天皇(上皇)には小倉宮恒敦(おぐらのみや つねあつ)という皇子がおり、その小倉宮には尊義王(たかよしおう)と尊雅王(たかまさおう)という二人の子供がいたと言われています。さらに尊義王(たかよしおう)と尊雅王(たかまさおう)はともに子供がおり、尊義王のほうの子は討たれてしまいましたが、尊雅王の子の信雅王(熊野宮)は、応仁の乱が終結してから3年後の文明12年(1480)、放浪の末に請戸ケ浜(現在の浪江町請戸港付近)に降り立ったといいます。つまり、信雅王(のぶまさおう)は後亀山天皇のひ孫にあたることになります。

 

後亀山天皇イラスト

南朝第4代の後亀山天皇。信雅王が実在しているとすれば、その曽祖父にあたる

 

信雅王(のぶまさおう)がはるばる東北の地までやって来たのは、最後まで南朝方を支援してくれた標葉(しねは)氏を頼ったからでしょう。そして一行は、浪江町の井出大高倉を御所に定め、ようやく安寧を得たかと思われました。

ところがそのわずか7年後、標葉氏(しねは)に敵対する相馬氏が攻撃を加えてきました。そのため長享1年(1487)、信雅王(のぶまさおう)は高瀬川を遡り、現在の葛尾村まで逃れていきました。そして五十人山を背にする高野城を新しい御所としたのでした。

 

奥に見えるのが、信雅王がこの地で最初に御所を定めたとされる浪江町井出大高倉。現在はまだ立ち入り規制が敷かれている。

 

高瀬川の支流にあたる葛尾川。信雅王一行はこの川を遡って葛尾村まで逃れたのかもしれない

 

 

南北朝復興の望みを捨てた信雅王

 

一見落ち着いたかのように思われたのも束の間、逃れてきた高野城での生活も、長くは続きませんでした。葛尾村に移ってさらに5年後の明応元年(1492)、後ろ盾だった標葉(しねは)氏が相馬氏に滅ぼされてしまったのです。しかも陸奥の相馬氏は北朝方。そのため、高野城はまたもや相馬氏に襲撃されました。相馬氏の軍勢は、五十人山の山頂から駆け下るように高野城を急襲してきました。

 

相馬兵:信雅王を探せ! 見つけ次第切り殺せ! 

 

突然のことで高野城では敵を迎え撃つ準備もできておらず、皆逃げ惑うばかり。

 

兵士1:みかどは何処におられる?! とにかく帝をお守りするのだ!

 

兵士2:城は破られました。帝、お逃げくだされ、お逃げくだされ。

 

城内が大混乱の中、信雅王(のぶまさおう)はからくも脱出に成功、山奥に逃れていくことができました。しかしながら頼みだった標葉(しねは)氏はもういない。それどころか相馬氏に襲撃され、多くの忠臣も失いました。

 

信雅王(のぶまさおう):ああ、私の望みが叶うことはもはやないのだろうか…

 

すっかり絶望した信雅王は、その後、僧となり、尾張一宮に落ち延びていったと伝えられています。

 

後南朝については、その血脈がどのように受け継がれていったのか、確かな記録はありません。しかしながら、水戸黄門の名で有名な徳川光圀公が編纂を命じた『大日本史』に記された南朝正統論に明治維新の志士たちは影響を受け、明治2年(1869)年に鎌倉宮を創建するなど、南朝方を祀る神社の創建や復興などを行なうようになったと言われています。

 

大日本史Cut

『大日本史』は徳川光圀の命によって明暦3年(1657)に編纂が始まり、完成したのは明治39年(1906)。目録を含め、全部で402巻もある。写真は水戸の弘道館が所蔵している中の一部

 

「とある説」の真意はいったいどこに?

 

戦後、連合国軍の支配下になると、皇族や皇位を偽って名乗ることへの取り締まりが緩みました。そこで登場したのは「自称天皇」、つまりは皇位継承者を自称する者たち。

 

そのひとりが信雅王に始まる家系を持つ「熊沢天皇」こと、熊沢寛道という人物でした。「信雅王こそが応仁の乱の際に西軍に迎えられた「西陣南帝」である」という主張は国内外のメディアに取り上げられ、信雅王(のぶまさおう)という名前が人の知られるところとなったのです。

 

実際には熊沢が南朝の血をひく者であるということは、その根拠が不明確であることから否定されていますが、その実態は闇の中。信雅王(のぶまさおう)を翻弄した南北朝をめぐる歴史と伝承、そのミステリーとロマンに、引き込まれる歴史ファンも多いのではないでしょうか。

 

葛尾村の観福寺。信雅王が伝承した宝物が収められていたと、熊沢天皇が主張した光福寺がその前身

葛尾村のこと

葛尾村は福島県浜通りの双葉郡に属し、面積約84キロ平方メートル、人口はおよそ1,400人という小さな山村です。この地は昔、染羽の国と称して後陸奥の一郡となり、平安時代につくられた『和名類聚抄』(辞書のようなもの)に標葉(しねは)郡の郷名が載せられていました。2011年3月の東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故により、全村避難を余儀なくされましたが、2016年に一部を除いて避難指示が解除され、徐々に帰還者が増加。村としての活動が再開されつつあります。

 

 

ふかしま。
レビューの平均:  
 0 レビュー

レビュー投稿
1
2
3
4
5
送信
     
キャンセル


レビュー投稿

ふかしま。編集部
ふかしま。編集部